丈夫ですとも……」
「深いんだらう?」
「それは深いですけれども、そんな心配はありませんの……」
「是でひつくりかへれば、それこそ本望には本望だけども――」Bはいくらか軽い調子で言つた。
「本当ね」
 時子も片頬を笑ませた。
 支那人の船頭が櫂を操つるにつれて、ボートは静かに川の上へ浮んで行つた。静かな波が日影と共にキラ/\と櫂に砕けた。
 次第に離れて行く岸には、支那人やロシア人が大勢集まつて此方《こちら》を見てゐた。中には此方《こちら》を指して何か言つてゐる者などもあつた。埠頭に立てられてある赤い旗のあたりには、ロシアの主席達が二組も三組も手を組んで歩いて行くのが見えた。
「私も、夏になると、抱への妓などゝ一緒に来るんですの……」
「漕げるのかね?」
「え、漕げますとも――よくひとりで漕いで行くこともあるんですもの――でもかうしてこの舟に貴方と一緒に乗らうなどゝはいつ考へたでせうね? それを想ふと、もうこれで十分だ! ツて云ふ気がしますねえ。矢張、あの雪の夜の十字架のお蔭ね?」
「矢張、お互ひに心をなくさずに持つてゐたからだね?」
「本当ですね」
 二人は恋の極致にでも達したやうな
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