あるシインが浮び出して来た。かれはもう十五六であつた。
かれは庫裡の玄関のぢき傍の三畳――さつきそこをかれは明けて見た。一杯|蜘蛛《くも》の網《す》、山のやうに積つた塵埃《ごみ》、ぷんと鼻を撲《う》つて来る「時」の臭ひ、なつかしく思つて明けては見たが、かれはすぐその扉を閉めて了つた。その三畳の格子《かうし》の前のところで、軽い艶《なまめ》かしい駒下駄の音が来て留つた。かれは幼心《をさなごころ》にもそれが誰だかちやんと知つてゐた。そこから真直に向うに行くと、鐘楼《しようろう》――それは今でもある、その鐘楼の隣の不動堂、蝋燭《らふそく》の灯、読経《どきやう》の声、消えたことのない不断の火、その賑かな光景の向うには、更に一層賑かな明るい灯、料理店、湯屋、三味線の湧《わ》くやうにきこえる音《ね》、月の光の下に巧い祭文語《さいもんがたり》が来て、その周囲《まはり》に多勢の男女を黒く集めてゐる――そこからその軽い艶《なまめ》かしい足音がやつて来たのであつた。
かれは黙つて経を前にして坐つてゐる……。と、ことことと音がする。唾《つば》で窓の紙をぬらす気勢《けはひ》がする。黒い瞳《ひとみ》をした二つの笑つた眼が其処に現はれた。
「慈海さん!」
かうその静かな声で言つた。
黙つてゐる。
「慈海さん!」
まだ黙つてゐる。
しかしかれは自分の小さな心臓の烈《はげ》しく動くのを感ぜずには居られなかつた。二つにわかれた心、その幼い時ですら、かれはその「二つのわかれた心」を既に深く経験してゐた。その涼しい二つの眼ではない方の眼、可愛い涙をふくんだやうな眼、それでゐて怒るとこはい眼、さういふ眼をかれは恐れた。その眼がすべてかれの後にゐるやうな気がした。
「慈海さん!」
また女は呼んだ。
「あとで、あとで……」
「そんなことを言つちや、いや――」
かう言つて頭を振つてゐるのが窓に映つて見える。
「ぢや、待つて……」
かう言つてかれは立上つた。
かれは其処を出て、この庫裡《くり》――囲炉裏《ゐろり》のあるこの庫裡に来た。今と少しも変らないこの庫裡に……。現に、その板戸がある。竹と松の絵が黒く烟《けむり》に煤《すゝ》けた板戸が依然としてある。その庫裡に何のために? その一つの心をわけた方の怒るとこはい眼が何処にゐるかを見るために――。
幸ひにその眼は其処にゐなかつた。かれはこつそりと玄関の戸を明けて、そして戸外《おもて》へ出た。月の美しい夜であつた。樹と樹と重り合つた黒い影がところ/″\に絣《かすり》のやうなさまを展《ひろ》げた。本堂の灯がぽつつりとさびしく見えた。
かれはあたりを見廻した。
其処にゐる筈の女の影が何処に行つたか見えない。屹度《きつと》調戯《からか》ふつもりに相違ない。かう思つて静かに樹の影の中に入ると、影と影の重《かさな》り合つた中に、更に濃い影があつてそれが動いてゐる。急に、微かに笑ふ声がした。つゞいてかれは柔かい女の腕《かひな》の自分に絡《から》みついて来るのを感じた。女の髪の匂ひがした……。
「慈海さん。」かう微かに女は言つた。
こんなことをかれはもう何年にも思ひ出したことはなかつた。それも、かれが深く恋したやさしい涙を含んだ眼の方を思ひ出さずに、却《かへ》つてそれを思ひ出したといふことが不思議であつた。
その心が、そのやさしい心が、又は男を思ふ心が、今だに、二十五六年を経過した今だに、そこに残つてゐて、その窓の下の空気の中にちやんと残つてゐて、そしてそれが自分の心に迫つて来たのではないか。かう思ふと、かれは不思議な一種の恐怖を感じた。
もう死んでゐるのかも知れない。弱い身体《からだ》の女だつたから、おとなしい女だつたから、不仕合せな女だつたから……。と、その肉体が亡《ほろ》びて、その思ひだけがその空気の中に生きて動いてゐるのかも知れなかつた。そんなことはない筈だ。かう打消しても打消しても、矢張それがついて廻つた。
ふと気がつくと、自分は蚊帳《かや》の中に寝てゐるのだつた。それは囲炉裏《ゐろり》のある隣の一間であつた。世話をする婆さんの寝てゐるいびき[#「いびき」に傍点]の音は向うの間《ま》からきこえて来てゐる。蚊のぶん/\唸《うな》る声が聞える。かれは容易に眠られなかつた。
「遠い昔だなア――」
かう思ひあつめたやうにしてかれは考へた。
此間も一度さういふことを考へたが、その夜もかれはかれ自身と放蕩《はうたう》無残な行為をした兄弟子との二つの生活をつづいて考へずには居られなかつた。兄弟子は慈雲と言つた。かれより四つ五つ上であつた。学問も出来て老僧の気に入つてゐた。老僧の了簡《れうけん》では、それを柔《やさ》しい涙を含んだ眼の持主の配偶者にしようと思つたらしかつた。現に、かれが寺から東京へ、僧から俗へと移つて行つたのも半ばそのためであつたのであつた。十九でかれはそれまで学んだ仏の道を捨てた。それからそれへと種々《いろ/\》なことをして歩いた。台湾にも行けば満洲にも行つた。仏の戒めた戒律をわざと破つて行くやうに見えるほどそれほど荒《すさ》んだ生活をやつて来た。或は寺にゐられなくなつた兄弟子よりも、もつともつと烈しいデカダンの生活を送つて来たかも知れなかつた。
寺の世話人――今度此処にかれを伴《つ》れて来た寺の世話人に東京でゆくりなく逢《あ》つた時、かれは寺のことを聞き、老僧のことを聞き、兄弟子のことを聞き、最後に柔しい涙を含んだ眼の持主のことを聞いた。
「さうですか、K町に行つてゐますか。K町の商人の妻になつてゐますか。それは何より結構ですな……。子供は? へゝえ、御座いませんか。一体、何方《どちら》かと言へば体の弱い女でしたからな。」
かう何気ない風をしてかれは言つた。
世話人の話で、かれは始めてその寺の娘が兄弟子の妻にならなかつたことを知つたのであつた。世話人はつゞいて話した。「いゝえ、別にさういふわけではないんですけれども、……老僧のある中は、隠居してからも、先代は固かつたのですけれども。ふとしたことから……、さア、そのふとしたことは何ういふことかわかりませんけれど、兎に角、急にあゝいふ風に、悪魔でも魅入《みい》つたやうになつて了つたものだから。」
「娘の片附いたのは、老僧が死んでからですか?」
「いえ/\、貴方《あなた》が寺をおいでになつてから二年ほど経《た》つか経たないほどです。」
「さうですか……」
意想外な気がかれにはした。
それからそれへと種々なことを思つてゐる中に、かれはいつとなく睡眠《ねむり》の襲つて来るのを感じた。そのまゝぐつすりと寝込んで了つた。
朝起きると、日がもう高くあがつてゐた。婆さんはもうとうに起きて、広い勝手元で、昔のまゝの土竈《どべつつひ》で、釜《かま》と火箸《ひばし》で朝飯を炊《た》いてゐるのを見た。何を見ても、昔のことが思ひ出されないものはなかつた。かれは夏草に半ば埋められた井戸を見た。本堂から山門につゞいてゐる長い敷石を見た。それも依然として元のまゝである。唯、その時分には掃除が綺麗に行届いて、その石に添つて松葉牡丹《まつばぼたん》の赤く白いのが長く見事に咲き続いてゐた。
かれは横楊枝《よこやうじ》で歯をみがきながら、鐘楼から、昔賑かであつた不動堂の方へと足を運んだ。そこでは不動堂の他《ほか》にかれは残る何物をも発見することが出来なかつた。門前町と言ふほどではないが、一時は両側に人家が並んで、参詣者《さんけいしや》がかなり遠い処からやつて来た。やれ護摩《ごま》をたけの、やれ蝋燭《らふそく》を呉れのと言つて、かれも慈雲も忙しい思ひをした。しかもその人家は「時」の大きな手にすつかり掃《はら》つて取去られて了つたかのやうに一軒もそこに見出されなかつた。すつかり桑畠《くはばたけ》と野菜畑とになつてゐた。何う考へて見ても、其処にあの遊蕩《いうたう》の気分が渦巻《うづま》き、三味線の音が聞え、赤い裾《すそ》をチラホラさせた色の白い女達が往来し、老僧は老僧で、同じ年恰好《としかつかう》の世話人と一緒にあの湯屋の二階の女を傍《かたはら》に終日碁を打つてゐたとは思へなかつた。かれは不思議な気がした。瞬間も「址《あと》」をつくらずに置かない「時」が恐ろしいやうな気がした。そしてその「址」が唯だ「址」として埋められては了はずに、いつかそれの再び蘇《とみがへ》つて来ずには置かないやうな気がした。
かれはもう不動堂の中の荒廃した形をのぞいて見る元気も何もなかつた。昨年のあの時から習癖になつた恐怖――いつ襲つて来るか知れない災厄の恐怖がかれを少からず不安にした。かれは急いで庫裡《くり》の方へと引返した。
四
自分ももう少しであの「恐ろしい群」の一人になるところではなかつたか。あの時もし東京にゐたならば――。
外国でなければ見ることの出来ないやうな事件、乃至《ないし》は空想したロオマンスででもなければ出逢ふことの出来ないやうな事件、かれ等は皆な獣のやうに一人々々引き出されて、断罪の場にひかれて行つたのであつた。
意志の実行――意志の実行のために虐《しへた》げられた人間の魂ではなかつたか。あらゆることを実行しても差支ない。世に罪悪と言ふものはない。悪と言ふものはない。唯自由があるばかりである。責任を負ひさへすれば――。かう言つたが、その責任が即《すなは》ちかれ等の死ではなかつたか。
その意志の実行は、果して死を価値してゐたか否か。飜《ひるがへ》つて考へて見なければならない余地はないか否か。かれ等は少くとも犬死ではなかつた。すぐれた芽《め》を蒔《ま》いたには相違なかつた。しかしその芽を蒔かなければならないほどの必要をかれ等の魂は感じつゝあつたのであらうか。
かれは失敗して本国に帰る舟の中でそれを聞いた。かれはその時の烈しいショックを忘れることが出来なかつた。急にかれの世界は狭くなつたやうな気がした。其処にも此処にも自分を監視する眼がついて廻つてゐるやうな気がした。かれは自分の舟の本国に向つて航しつゝあるのを恐れた。かれは船室の中にのみ閉籠《とぢこも》つた。
エイア・ブウルからは美しい碧《あを》い海が見えた。行つても行つても海である。掀翻《きんぽん》し、飛躍し、奔跳《ほんてう》する海である。その上には時には明るい朝日が照り、わびしい黄《きいろ》い夕日が落ち、赤い湧《わ》くやうな雲が浮んだ。「群」の人達の記憶は払つても払つても絶えずかれの魂を襲つた。かれは時にはいつそ身を海中に躍《をど》らせようと思つて甲板《かんぱん》の上を往来した。
――「何《ど》うです、一度故郷の寺に帰る気はありませんか。あなたが跡をついで下さるなら、それに越したことはないのですが、世話人達も、村の者共も、貴方《あなた》ならば喜んでお迎へするにきまつてをりますが。」かうその世話人から言はれた時には、そこより他《ほか》に、その古い人知らない田舎《ゐなか》の廃寺より他に、自分の身を、体を置くところはないやうにかれは思つた。老師の魂が荒《すさ》んだ自分の魂を救つて呉れるやうにすらかれは思つた。
かれは尠《すくな》くとも落附いて考へて見なければならないと思つた。これまでに自分のやつて来たことは、すべて皆な失敗に終つた。あらゆる悲喜、あらゆる事業、あらゆる思想、すべて皆な不自然であつた。自由を欲する――唯この一語にすら、かれはあらゆる矛盾と撞着《どうちやく》とを感じた。意志と魂との区別も、もつと深く静かに考へて見なければならなかつた。それには、田舎《ゐなか》の山の中の寺、廃寺、何の束縛もないのが好いと思つた。余りに多く世に染まりすぎた。世間と人間とに捉《とら》はれすぎた。静かに休息させて下さるなら……一二年行つて見たいからといふ手紙をかれは世話人に書いた。
かれは郊外の或る家に置いた自分の書籍――かれやかれの「群」が一生懸命に読んだ書籍、パンの問題、精神の問題、自由意志の問題、さういふことを書いた沢山の書籍をある日古本屋を呼んで売つた。古本屋は何も知らない半ば老いた男であつ
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