ばした。
 しかし署長や父親や村の人達が想像したやうなものではなかつた。慈海と娘とは未《いま》だに言葉すらも交へなかつた。群集の中の信者は話した。「何うしてそんなことが、あの生仏さまにあるものですか。このお嬢様は昨日の夕方にひよつくりおいでなすつて、私達に雑つておつとめをなすつていらしつた。何処のお嬢様か知らぬが、めづらしい篤志の方もあるものだと思つてゐた。そして昨夜《ゆうべ》はかうして私達と此処に一緒においでになつた――生仏さまは、少しもそんなことは御存じなかつた。」
 一人ならず、其処にゐた人達は、皆なさう話した。
 娘は娘で、何うしても、此処に暫くの間、かうして置いて呉れと言つて、決して父親に従つて家へ帰るとは言はなかつた。警察の人達も何うすることも出来なかつた。
 で、止むを得ず、一同は引上げたが、その噂は更に広く深く人々の心を動かした。大きな誘拐者――かうした議論が一町村ばかりではなく、郡から県までへも問題にされて行つたが、それと共に、不思議な坊主の噂は益々近県に聞えた。ある田舎《ゐなか》の新聞は二号活字か何かで、半ば信じ半ば怪しむやうな記事を載《の》せた。
 夏になり秋にな
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