に忍びないほどであつた。さうした覚悟の家出なら、何とか書いたものか何かが残つてゐさうなものである。又生きてゐるものなら、途中から何等かの便《たより》がありさうなものである。しかし金も持つて行つた形跡もなければ、予《あらかじ》めさうした予定があつたらしい痕跡も残つてゐない。娘は奥の自分の居間に坐つてゐて、ふと思ひ立つて出かけたらしく、座蒲団も硯《すゞり》も筆もそのまゝになつてゐた。外国の小説らしい本が半ば開けられて、そこにちやんと赤い総《ふさ》のついた枝折《しをり》が挟んであつた。
 その日も暮れた。
 ところが、更に驚くべき報知が町や村を騒がせた。それは娘が長昌院の信者の中に雑つてゐたといふことであつた。他《はた》でそんなに大騒ぎをしてゐるのを少しも知らないやうにして、且《か》つは信仰的エクスタシイが不意に娘の魂を誘つたといふやうにして、かの女は汚い大勢の群の中に雑つて、一心に経を誦《ず》してゐたのである。人々は皆な驚愕《おどろき》の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
 署長や巡査はすべてを捨てて、剣を鳴して寺へと行つた。それと知つて、父親や分家の人達も車を飛
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