な悲しいやうな涙の溢《あふ》れて漲《みなぎ》つて来るのを感じた。上さんは暫《しば》し立尽した。
 信者達の熱心な誦経《ずきやう》の声はあたりに満ちた。取附く島もないやうにして上さんは立つてゐたが、やがて庫裡《くり》の奥から五分刈位に髪の毛を延した鬚《ひげ》の深い僧が此方にやつて来た。それはかれであつた。
 かれはちよつと此方を見た。しかし別にこの不意の訪問に驚くといふやうな風もなしに、黙つてぢつと其処に近寄つて来た。さながらかの女の来るのを今日は待つてゐたと言はぬばかりに――。
 少くとも上さんには無量な感慨が集つて来た。何を言つて好いか、何から話して好いかわからないほど胸が一杯になつた。しかし昔馴染《むかしなじみ》と言ふやうな、又は昔の恋人と言ふやうな単純な気分ではなかつた。凝《ぢつ》として見詰めて立つた彼の前に、かの女の頭はおのづから下つた。
 長い間抱いてゐた苦痛、重荷、罪悪――さういふものをすつかりそこに投出して、かの女は思はず合掌した。
 かれは手を合せながら唯一言かの女に言つた。
「今日からは、仏の道に、まことの道に……」
「難有《ありがた》う御座います。」
 かうかの女は
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