た石と鼻の欠けた地蔵尊とが……。上さんは胸がある聖《きよ》い尊い物に圧《お》しつけられるやうな気がした。
「そこで好う御座んす。」
 で、車を下りて、上さんは静かに山門の中へと入つて行つた。銀杏返《いてふがへし》に結つた髪、黒の紋附の縮緬《ちりめん》の羽織、新しい吾妻《あづま》下駄、年は取つてもまだ何処かに昔の美しさと艶《あで》やかさとが残つてゐて、それがあたりの荒廃した物象の中にはつきりと際立《きはだ》つて見えた。
 破れてはゐるが昔のまゝの寺である。昔のまゝの長い敷石である。井戸も深い草の中に埋れてはあるけれども昔のまゝである。かの女はさま/″\の思ひに満されながら庫裡《くり》の方へ行つた。
 其時分には慈海はもう一人ではなかつた。群集の中の信者は、代り代りにやつて来てゐた。出来るならば、師の洗ひすゝぎをさせて頂きたい、朝夕の食事の世話をしたい、水を汲んで上げたい、高恩に報ゆるための労働に服したい。かう言つて、信者の男女《なんによ》はやつて来た。現に、かの女の行つた時にも、若い老いた女や男が五六人庫裡に集つて経を誦《ず》してゐるのを見た。
 かの女は有難《ありがた》いやうな尊いやう
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