尚《をしやう》、慈海ツて言ひやしねいかえ?」
「何ツて言ふか名は知らねえが、何でも先代の弟|弟子《でし》だツて言ふこつた。」
「それぢや、慈海さんに違ひない。何時《いつ》から来たんだ?」
「何でも去年あたりだんべ。丸つきりお経べい読んでゐるツていこつた。」
「へえ?」
 上さんの心は動かずには居られなかつた。東京に行つてからの慈海の噂《うはさ》も始めは少しきいてゐたので、さうした和尚になるとはちよつと想像が出来なかつたが、段々|聞糺《きゝたゞ》して見ると、てつきりそれは慈海であるに相違ないことが段々わかつた。
 上さんは不思議にもぢつとしては居られなかつた。ある深い渇仰《かつがう》に似た念が溢《あふ》れるやうに漲《みなぎ》つて来た。それは昔の慈海に逢ひたいといふ心持ではなかつた。単になつかしいといふやうな心持でもなかつた。長年抱いてゐた重荷を下ろして救つて貰はなければならないやうな気がした。
 店が忙しいために、その願ひも遂《と》げられずに幾日か経つたが、其間にも片時もそれを忘れることは出来なかつた。上さんは願《ぐわん》をかけて仏にお礼参りを怠つてゐるやうなすまなさを感じた。
 ある晴
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