しく、仕事をしてゐた金挺《かなてこ》の手を留めて、いきなりその前に行つて、随喜合掌した。
 それを見てゐた弟子や嚊は吃驚《びつくり》してそれを人々に話した。
 鍛冶屋の亭主は、聞く人がある[#「ある」は底本では「あの」]度毎に言つた。
「俺《おら》にもわからない。しかし、俺ア、あのお経を聞いて手を合はせずには居られなくなつた。実際、俺ア、何も知らずに来た。わるいこともわるいと思はずにこれまでやつて来た。女も何人泣かせたかわかりやしねえ。弟子共にも薄情の真似をした。親には殊に不孝をした……。泣いても悔んでも足りねえやうな不孝をした。不思議だ。金挺《かなてこ》を持ちながら、あのお経を聞くと、急にそれが堪らなくなつて、自分で自分を忘れて、そして飛び出して行つた。えらい和尚さまだ。生仏《いきぼとけ》だ。この恩は忘れられない。これからは俺は善人だ。」
 かう言つて涙を流した。
 これに限らず、さうした不思議の話は、その近所の町と村とを中心にして波動のやうにして伝《つたは》つて行つた。ある時はひそかに嫂《あによめ》に通じてゐた小商人《こあきうど》の店にあらはれて、それをして悔い改めさせた。ある時は
前へ 次へ
全80ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング