長い間人知れず自ら咎《とが》めてゐた殺人の罪を持つた男をしてその胸を開かしめた。父親《てゝおや》の子を生んだ娘は泣いてその汚れた袈裟《けさ》に縋《すが》つた。
 その冬から春にかけては、何処に行つてもその噂《うはさ》が繰返された。「そんなことがあるものか。」と言つて否定した人達も、後にはそれを信じない訳に行かなかつた。
 ある時には、その不思議を知りたいと言ふので、その町の唯一の大学生――心理学研究の大学生が、正月の休暇に帰省してゐるのを好い機会《しほ》に、ある人達と共に慈海のゐる寺へと出かけて行つた。
 荒廃した寺のさまが先《ま》づかれを驚かした。山門は半ば倒れ[#「倒れ」は底本では「倒て」]かけてゐた。本堂は本堂で、庇《ひさし》は落ち、屋根は崩れ、草が一杯にそこらに生えてゐた。
 つゞいて大学生を驚かしたのは、畳の真黒になつた中に、ひとりぽつねんとして坐つてゐる僧の姿であつた。しかもそれは普通の僧侶のやうに頭も剃《そ》つて居なければ、僧衣も着てゐなかつた。普通のやうにして慈海は話した。
 大学生は一時間ほど其処にゐた。
 別に話といふほどの話はなかつたが、その態度の片鱗《へんりん》
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