苦しい辛い罪悪がある家の前に行くと、きつと立留つて長くお経を読んでゐる。きつとそれが中《あた》る。そのお経の声がぢつとその人の胸にこたへる。現に、私なんかも、その一人で御座います。私は心中をしました。男が死んで自分が生き残つたのです。その時は別に何とも思ひませんでした。好いことをしたとも思ひませんが、生命《いのち》があつて好かつたと思ひました。しかしそれが何《ど》んなにその後私を苦しめましたか。私は行く先々で、きまつて男から心中を誘はれました、男がそのために生命《いのち》を失つたものは一人ではありません。そしてその度毎に、私はいつも生残つて来るのでした……。あゝ、もうしかし、生きた仏に逢《あ》つて、この苦悩を救はれました」。かう言つて女は手を合せて数珠《じゆず》を繰つた。
「あの和尚さんは仰《おつ》しやつた。一度心中しそこなつたものは永久に心中のしそこなひをするものだ。姉を姦したものは、又必ずその妹を姦するものだとかう仰しやいました。あの和尚さんは私の苦しみを救つて下すつた。仏に向つて手を合せるやうにして下すつた。生みの親の恩よりももつと深い。」かう女は群集に向つて言つた。
不思議な
前へ
次へ
全80ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング