仰《ずゐきかつかう》してゐる。
 かれは唯黙つて読経《どきやう》した。
 かれは五六日前に、その女の抱へられてゐる小さな料理屋の門《かと》に立つた。それは夕暮で、これから忙しくならうとする頃であつた。奥には、もう客が二組も三組も来てゐた。そこの上《かみ》さんは、面倒だと思つたかのやうに、一銭をその鉄鉢《てつばつ》の中に入れてやつた。しかしかれは容易にその読経《どきやう》と祈念とをやめなかつた。かれの心がこの門に引かれたと同じやうに、かれの読経の声に心も魂も帰依《きえ》せずにはゐられないやうな女が其処に一人ゐたのであつた。それはかの女であつた。男に対する苦痛と罪悪とに日夜|虐《さいな》まれ通しで生きて来たかの女であつた。かの女はその重荷に堪へかねた。
 かの女は店から外に出て来て、かれの前に跪《ひざまづ》いて合掌した。
 その話を聞いた時には、そこに集つた人達は皆な不思議な思ひに打たれた。
 トボ/\と野に向つて行くかれのさびしい姿を人々は見送つた。
「本当かな!」
「本当ですともな……。あの和尚《をしやう》さんは、普通の和尚さんではない。あゝして托鉢《たくはつ》して歩いてゐるけれども、
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