いかと言ふことが解らなかつた。不思議の奇蹟《きせき》がかれの心の周囲をめぐつた。
 幼時に習つた経文に書いてあつた奇蹟、そんなことがあるわけがないと思つたやうな奇蹟、それが今不可思議の事実としてかれの前にあらはれて来た。古来存在した幾万億の仏達、菩薩《ぼさつ》達の行《おこなひ》が、言葉がかれの心に蘇《よみがへ》つて来た。
 かれの姿はあちこちに見えた。時には寒い碧《あを》い色をした小さな沼の畔《ほとり》の路に見えた。時には川添《かはぞひ》の松原のさびしい中に見えた。かと思ふと、ある小さな町の夕日を受けた家並《やなみ》の角に見えた。
 寒い西風の吹き荒るゝ路を静かに歩いて通つてゐたりした。
 かれは日毎に出懸《でか》けては、家々の軒に立つた。
 辛い悲しい生活をかれは其処此処で見かけた。しかしさうした生活以上に我々人間の大切なことがあるのを誰も知らない。人々はそれを知らないがために苦しんでゐる。慨《なげ》いてゐる。その無智な、無辜《むこ》の人達のために、殊にかれは手を仏に合せなければならないことを思つた。

 ある寒い夕暮に、かれは自分の居間で黙つて坐つてゐた。かれの衣《ころも》は薄く且
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