廻つてゐる家、あるところでは、若い女が白い新しい手拭で頭を包んで、せつせと稲を扱《こ》いてゐた。誰も彼も世のしわざにいそしんでゐた。しかし、この穏かな平和な田舎《ゐなか》も、それは外形だけで、争闘、瞋恚《しんい》、嫉妬《しつと》、執着《しふぢやく》は至る処にあるのであつた。道ならぬ恋の罪悪、乾くことなき我慾の罪悪、他を陥れなければ止まない猜疑心《きいぎしん》、泥土《でいど》に蹂躙《じうりん》せられた慈悲、深く染着《せんちやく》しつつもその染着をわるいと思はない心、さういふ光景は一々かれの眼に映つて見えた。
 ある大きな家では、かれは長い間立つて読経《どきやう》した。
「出ないと言ふのに、うるさい坊主だな!」
 かういふ主婦の尖《とが》つた声がした。
「やれよ、やれよ、一文やれよ、うるせい坊主だ。」
 かういふ主人らしい男の声が奥からきこえた。
 やがて五厘銭は投入れられた。
 しかしかれは読経の声をやめなかつた。また容易にそこを立去ることをしなかつた。静かにかれは読経をつゞけた。
 かれ自身にもそれはわからなかつた。何ういふ理由で、その家の前で、さうして長く立留つて読経しなければならな
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