かれは感じなかつた。また華《はな》やかな面白い「世間」に向つて引戻さるゝやうな心をも感じなかつた。
飢《う》ゑを覚えた時に、かれは始めて立つて、七輪の下を煽《あふ》いだ。また、世話人の持つて来て置いて行つて呉れた四角の小櫃《こびつ》の中の米をさがした。
夕暮になると、夥《おびたゞ》しい蚊が軒に蚊柱を立てた。室《へや》の中を歩いても、それがバラ/\と顔に当るほどである。かれは思つた。「これも自分と同じ生物だ。飢ゑたがために食を求めてゐるものの声である。でなければ、生殖のために、不可解の生命の連続のために盲目の恋をしてゐるものの声である。生命のために冒険をしてゐるものの声である。『恐ろしい群』の人達のあげた悲鳴と同じ悲鳴を挙げるものの声である。」
かれは思ひつゞけた。
「しかし、この冒険のためには、盲目の恋のためには、食を求めるためには、生死を問題にしては居られない。従つて、かれ等に取つて、生死はその運不運であり幸不幸であるのは勿論《もちろん》である。しかし、更に一歩を進めて考へて見る。運不運ではあり、幸不幸ではあるけれども、それ以上に生の力が、盲目の生の力が肯定されてゐるではないか
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