忍苦ではなかつたか。放蕩《はうたう》もまた苦行、残忍無残もまた苦行、デカダンもまた苦行、「恐ろしい群」もまた苦行、歓楽もまた苦行ではなかつたか。美しい女の肌に触れ、美酒にあくがれ、音楽に心を蕩《とろ》かしたのも亦《また》苦行ではなかつたか。
 山海の珍味を尽し、美を尽し、善を尽し、出《いづ》るに自動車あり、居《を》るに明眸皓歯《めいぼうかうし》あり、面白い書籍あり、心を蕩《とろ》かす賭博《とばく》あり、飽食し、暖衣し、富貴あり、名誉あり、一の他の不満不平あるなくして、それでも猶《な》ほ魂に満されざる声を聞くのは何の故か。かうしたことも亦苦行の一つであるからではないか。
 ふとある光景がかれの眼の前に起つた。それは恐ろしい光景であつた。弱きものの虐《しへた》げられ、滅《ほろぼ》さるゝ光景であつた。数本の足――或は毛深い、或は青白い、或は滑《なめ》らかな数本の足がだらりと空間に下つて見られた。かれは思はず手を合せて、口に経文を唱《とな》へた。
 次第に幼い頃の空気がかれの心の周囲に集り且《か》つ醸《かも》されて来るのを覚えた。最早始めに来た時に感じたやうな「孤独」と「寂寥《せきれう》」とを
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