て来る千万の考慮をも捨てよう……」かう思つて、かれは庫裡《くり》の一間から出て来た。
 いつもゐるところに婆さんがゐない。道具と言つては唯これ一つしかないと言つても好い長火鉢、その上には鉄瓶《てつびん》がかゝつて、しかも沸《に》え立つてプウ/\白い湯気を立ててゐた。
 かれはそれに水を足した。
 そしてそこにあつた下駄をつツかけて戸外《おもて》に出た。
 広々として美しく日にかゞやいた野がその前に展《ひら》けた。夏のさかりの大地から湧《わ》き上る暑気は、草にも木にも一面に漲《みなぎ》りわたつて、キラ/\とかれの眼と体とに反射して来た。
 畠には笠《かさ》をかぶつて百姓が頻《しき》りに草を取つてゐた。
 ふと昨夜《ゆうべ》世話人がやつて来ていろ/\に言つた寺の経営の話がかれの頭にのぼつて来た。「兎《と》に角《かく》、昔から由緒《ゆゐしよ》のある寺だから、この儘《まゝ》かうして置くのは残念だ。何うか、貴方《あなた》が来たのを機会に、昔のやうには行かなくとも、本堂も修繕し、庫裡《くり》ももう少し住み好いやうにし、寺としても余り人に馬鹿にされない寺にしたい。……中興の祖には、貴方より他《ほか》
前へ 次へ
全80ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング