ふ声がした。誰も見てゐるに忍びないやうな気がした。
 土手の上には、白樺色《しらかばいろ》の蝙蝠傘《かうもりがさ》と派手な鼻緒のすがつた下駄と……
 かうした光景は其処にも此処にも起つた。広い世間には、かうして自《みづか》ら殺すものが何人あるかわからない。現に今でも、かうして寂然《じやくねん》としてかれが坐つてゐる間にも、さういふ悲劇が何処かで繰返されてゐるかも知れない。何のために、満たされざる心のために、辛い辛い捨てられた心のために、痛い痛い刺戟《しげき》のために……。
 自ら殺さうとしたことの一度ならず二度まであるかれに取つては、さうしたシインが殊に堪へ難い刺戟を与へた。
 それは近いことではなかつた。かれに取つてはもう遠い昔だ。しかしをり/\その心の光景が描き出された。二つにわけられた心と二つに突詰めた心と、この心は実は一つである。わけられる心も突詰める心も同じ心である。その区別は唯境遇に由《よ》るのである。その時の存在の形によるのである。一と一とぴたりと合つたものは幸福である。一と二と合つたものは不幸である。しかし幸福と言ひ、不幸と言つても、それは共に外形であつて、もう少し深く
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