微かに照した。
流石《さすが》にかれは経を忘れなかつたが、しかし不思議な気がせずには居られなかつた。かれは読んで行く物の中に自分の遠い過去が再び蘇《よみがへ》つて来たのを感じた。始めは静かであつた声は次第に高くなつて行つた。その声の中にはまだけがれない無邪気な心が籠《こ》められてあつた。
暫くの間、その読経《どきやう》の声は、荒れたさびしい本堂の中にきこえた。
で、それがすむと、その父親は、そのまゝ小さな棺をかついで、サツサと墓地の方へと行つた。かれは不思議な気がせずには居られなかつた。かれはその姿の夕暮の闇の中に見えなくなるまで見送つた。
「仏は人間のことのすべてを知つてゐる。人間の犯した過去の罪を総《すべ》て知つてゐる。」かう思ふと、かれは其処に落着いてぢつとして立つてゐられないやうな心の恐怖を感じた。
急いで庫裡《くり》へと戻つて来た。
「何故《なぜ》、あの時、あの女はあの子を抱いて井戸に身を投じたであらうか。何故? 何故?」かうかれは心の中に絶叫して、長い間その答を待つたが、竟《つひ》にその答はやつて来なかつた。自己は自己である。愛した女だとて、自己の総《すべ》てを占領
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