単衣《ひとへ》に絽《ろ》の古びた羽織を着たかれの姿は、午後の日の暑く照る田圃道《たんぼみち》を静かに動いて行つた。町は市日《いちび》で、近在から出た百姓がぞろ/\と通つた。種物屋の暖簾《のれん》は、昔と少しも異《かは》らずに、黒い地に白く屋号をぬいて日に照されてゐるのを見た。氷屋の店では、赤い腰巻をした田舎娘《ゐなかむすめ》が二三人腰をかけて、氷水を匙《さじ》ですくつて飲んでゐた。
ある店の前を通ると、
「慈海さんぢやないか?」
かうある婆さんがいきなり呼んだ。ちよつとはその誰であるかがわからなかつたが、暫くしてそれは不動堂の前の湯屋をした上《かみ》さん――その時分は三十位でいき[#「いき」に傍点]な如才のない上《かみ》さんであつたといふことがわかつた。「まアお上り……帰つてゐるツて聞いたから、一度|逢《あ》ひたいとは思つてゐたんだよ。」かう言つてかれは無理に引上げられた。上さんは亭主に四五年前に死なれて、今は息子が家のことを万事やつてゐた。湯屋から町へ出て、今の小間物商を始めたといふことであつた。
話の中には再び昔の不動前の賑かな光景が蜃気楼《しんきろう》のやうに浮んで来た。老
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