た。この書籍の中に、人間の意志が、魂が、恐怖が、事件が一々こもつてかくされてあるのは夢にも知らずに、平気でそれに評価をつけて、銭をちやら/\そこに勘定して置いて、そしてそれを背負つて行つた。
かれはあらゆるものを捨てて、着物を入れた行李《かうり》一つを携へて、そしてこの故郷の寺へと来た。
五
寺に来てから、かれは種々《いろ/\》な人達に逢つた。世話人の重立つた人達、それは昔見た時よりも年を取り白髪《しらが》が多くなつてゐるばかりで、矢張或者は青縞《めくらじま》の製織に、ある者は小作の取り上げに、或者は養蚕《やうさん》の事業に一生懸命に携はつてゐるのを見た。世の中にあつた種々な大事件、恐ろしい戦争の殺戮《さつりく》、無辜《むこ》のものの流るゝ血、乃至《ないし》は新しい恐ろしい思潮、共同生活を破壊する個人思想、意志と魂との扞格《かんかく》、さういふものがこの世界にあらうなどとは夢にも知らずに、朝は早く起き、夜は遅く寝て、唯その家業にのみいそしんでゐるのであつた。かれ等は広い世の中を知らなかつた。都会の生活をも知らなかつた。文明といふことも、新聞の上で見るばかりで、それが果
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