まゝにして置いた。取巻いた壕《ほり》の跡には、深く篠笹《しのざさ》が繁つて、時には雨後の水が黒く光つて湛《たゝ》へられてゐるのが覗《のぞ》かれた。春はそこから出て野に行く道に、蓮華草《れんげさう》や菫《すみれ》の一面に咲いたところがあつて、村の小娘達はそれを採つては束にして終日長く遊んでゐるのを誰も見懸けた。
 梅雨《つゆ》の降頻《ふりしき》る頃には、打渡した水の満ちた田に、菅笠《すげがさ》がいくつとなく並んで、せつせと苗《なへ》を植ゑて行つてゐる百姓達の姿も見えた。かれ等は用水の漲《みなぎ》つて流れる縁を通つて、この昔の館《やかた》の址《あと》の草藪に埋められてある傍を掠《かす》めて、そしていつも揃つて野良の方へと出掛けて行つた。
 少くとも、このH村では、半ば野に、半ば丘に凭《よ》つてゐるこのH村では、その城主の館の址と、五百年も前からあつたといふ寺と、その寺に残つてゐる苔蒸《こけむ》した墓と、この三つが、長い「時」の力の中に僅《わづ》かに滅びずに残つているもので、それ以外には何物も昔の跡を語るものはなかつた。寺の大檀越《だいだんをち》で、旧家で、昔は寺の為めに非常に喜捨をしたとい
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