三年して死んで了《しま》つたので、あとは村の世話人が留守居などを置いて間に合せて来た。寺は唯荒るゝに任せた。
 長昌院と言へば、この界隈《かいわい》でもきこえた古い寺である。徳川時代にもいくらか御朱印のついてゐる格式の好い方であつたし、田地も十分についてゐたし、境内も広い広いものであつたし、先々代の老僧などは、駕籠《かご》に乗つて伴廻りを三人も四人も伴《つ》れなければ決して戸外《おもて》には出ないほどであつた。それに古い由緒《ゆゐしよ》が更にこの寺を価値《ねうち》づけた。寺の奥にある大きな五輪塔形の墓、苔《こけ》の深く蒸《む》した墓、それは歴史上にも聞えたこの土地の昔の城主なにがしの遺骸を埋めたところで、戦国時代にあつては、この城主は、この近隣数郡の地を攻略して、後にはその勢威がをさ/\一国を震慴《しんせふ》させたといふことであつた。今でもその住んでゐた城の址《あと》はその村の西の一隅に草藪《くさやぶ》になつて残つてゐるが、半ば開墾されて麦畠、豆畑、桑畑《くはばたけ》になつてゐるが、それでも館《やかた》の址《あと》だけは開墾すると祟《たゝり》があると言つて、誰も鋤《すき》も入れずにその
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