りと玄関の戸を明けて、そして戸外《おもて》へ出た。月の美しい夜であつた。樹と樹と重り合つた黒い影がところ/″\に絣《かすり》のやうなさまを展《ひろ》げた。本堂の灯がぽつつりとさびしく見えた。
かれはあたりを見廻した。
其処にゐる筈の女の影が何処に行つたか見えない。屹度《きつと》調戯《からか》ふつもりに相違ない。かう思つて静かに樹の影の中に入ると、影と影の重《かさな》り合つた中に、更に濃い影があつてそれが動いてゐる。急に、微かに笑ふ声がした。つゞいてかれは柔かい女の腕《かひな》の自分に絡《から》みついて来るのを感じた。女の髪の匂ひがした……。
「慈海さん。」かう微かに女は言つた。
こんなことをかれはもう何年にも思ひ出したことはなかつた。それも、かれが深く恋したやさしい涙を含んだ眼の方を思ひ出さずに、却《かへ》つてそれを思ひ出したといふことが不思議であつた。
その心が、そのやさしい心が、又は男を思ふ心が、今だに、二十五六年を経過した今だに、そこに残つてゐて、その窓の下の空気の中にちやんと残つてゐて、そしてそれが自分の心に迫つて来たのではないか。かう思ふと、かれは不思議な一種の恐怖を
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