つの笑つた眼が其処に現はれた。
「慈海さん!」
 かうその静かな声で言つた。
 黙つてゐる。
「慈海さん!」
 まだ黙つてゐる。
 しかしかれは自分の小さな心臓の烈《はげ》しく動くのを感ぜずには居られなかつた。二つにわかれた心、その幼い時ですら、かれはその「二つのわかれた心」を既に深く経験してゐた。その涼しい二つの眼ではない方の眼、可愛い涙をふくんだやうな眼、それでゐて怒るとこはい眼、さういふ眼をかれは恐れた。その眼がすべてかれの後にゐるやうな気がした。
「慈海さん!」
 また女は呼んだ。
「あとで、あとで……」
「そんなことを言つちや、いや――」
 かう言つて頭を振つてゐるのが窓に映つて見える。
「ぢや、待つて……」
 かう言つてかれは立上つた。
 かれは其処を出て、この庫裡《くり》――囲炉裏《ゐろり》のあるこの庫裡に来た。今と少しも変らないこの庫裡に……。現に、その板戸がある。竹と松の絵が黒く烟《けむり》に煤《すゝ》けた板戸が依然としてある。その庫裡に何のために? その一つの心をわけた方の怒るとこはい眼が何処にゐるかを見るために――。
 幸ひにその眼は其処にゐなかつた。かれはこつそ
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