ばした。
しかし署長や父親や村の人達が想像したやうなものではなかつた。慈海と娘とは未《いま》だに言葉すらも交へなかつた。群集の中の信者は話した。「何うしてそんなことが、あの生仏さまにあるものですか。このお嬢様は昨日の夕方にひよつくりおいでなすつて、私達に雑つておつとめをなすつていらしつた。何処のお嬢様か知らぬが、めづらしい篤志の方もあるものだと思つてゐた。そして昨夜《ゆうべ》はかうして私達と此処に一緒においでになつた――生仏さまは、少しもそんなことは御存じなかつた。」
一人ならず、其処にゐた人達は、皆なさう話した。
娘は娘で、何うしても、此処に暫くの間、かうして置いて呉れと言つて、決して父親に従つて家へ帰るとは言はなかつた。警察の人達も何うすることも出来なかつた。
で、止むを得ず、一同は引上げたが、その噂は更に広く深く人々の心を動かした。大きな誘拐者――かうした議論が一町村ばかりではなく、郡から県までへも問題にされて行つたが、それと共に、不思議な坊主の噂は益々近県に聞えた。ある田舎《ゐなか》の新聞は二号活字か何かで、半ば信じ半ば怪しむやうな記事を載《の》せた。
夏になり秋になつても、娘は竟《つひ》に家に帰らなかつた。後には、その父母は娘の雑用《ざふよう》の米やら衣類やらを其処に運んで行かなければならなかつた。母親もやがてはその信者の群の一人になつた。
十八
さうした不思議は猶《な》ほこれに留《とゞま》らなかつた。貧しき者は富み、乏しき者は得、病める者は癒《い》え、弱き者は力を恢復《くわいふく》した。
「求めざるものは得、欲するものは失ふ。」かうしたかれの悟《さとり》は、かれの日夜の行《ぎやう》と共に益々生気を帯びて来た。
半ば山に凭《よ》り半ば平野に臨んださびしい村は、今や驚くべき賑かな光景を呈した。人々は山を越し野を越し丘を越して此処に集つて来た。
大きな誘拐者、大きな山師、かうした批評は、世間の一面にはまだ依然として残つてゐるけれども、信者はそんなことには最早《もはや》頓着してゐなかつた。荒れ果てた本堂に籠《こも》るものは、日に日にその数を増して行つた。
かれ等は皆なその衣食を持つてやつて来た。破れた山門の前には、米や味噌を乗せた車が多く集り、あらゆるものが庫裡《くり》に満ち溢《あふ》れた。
始めはその態度に呆《あき》れ、中頃はその始末に困つた村の世話人達も、今ではこの盛《さかん》な光景に驚き且《か》つ怖《おそ》れた。遂には自ら熱心なる信者にならない訳に行かなかつた。
朝の読経《どきやう》の声は一村に響きわたつてきこえた。
しかし、慈海かれ自身は、決して以前の生活を改めなかつた。かれは寂然《じやくねん》として唯ひとりその室《へや》にゐた。小さな机、古い硯箱《すゞりばこ》、二三冊の経文、それより他はかれの周囲に何物もなかつた。かれは飢《うゑ》を感ずるのを時として、出て来ては七輪を煽《あふ》いだ。
しかも、かれの命を聞くをも待たずして、やがて本堂の破れた屋根は繕はれ、庇《ひさし》は新しくせられ、倒れかけた山門はもとの状態に修繕された。
女達は毎朝綺麗に廊下から本堂を掃除した。爺達《おやぢたち》は箒《はうき》を持つて一塵も残らないやうに境内を掃き浄《きよ》めた。若い女達はさま/″\の色彩を持つた草花を何処からか持つて来て栽《う》ゑた。
昔のさびしい荒れた中に寂然《じやくねん》として端坐してゐた如来仏《によらいぶつ》の面影《おもかげ》は段々見ることが出来なくなつた。大きな須弥壇《しゆみだん》、金鍍《きんめつき》をした天蓋《てんがい》、賓頭盧尊者《びんづるそんじや》の木像、其処此処に置かれてある木魚、それを信者達は代る代るやつてきて叩《たゝ》いた。
本堂も隙間がない位に一杯に信者が集つて、異口《いく》同音に誦経《ずきやう》した。その中に雑つて、慈海の誦経の声は一段高く崇厳に高い天井に響いて聞えた。
[#地から1字上げ](大正六年七月)
底本:「現代文学大系10 田山花袋集」筑摩書房
1966(昭和41)年1月10日発行
※疑問箇所の確認にあたっては、「定本花袋全集 第九巻」臨川書店、1993(平成5)年12月10日復刻版発行(元本は、内外書籍、1923(昭和12)年10月15日初版発行)を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2004年10月4日公開
2009年9月16日修正
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