ばゝあ》は竟《つひ》に帰つて来なかつた。二人目も五六日で暇《いとま》を乞ひに世話人の許《もと》にやつて来た。
三人目、四人目……。
世話人は訊《き》いた。
「何うして、さうだらう。何か和尚《をしやう》がいやなことでもするのかな?」
「いゝえ。」
別にさうしたことがあるのでもないらしかつた。ある婆さんは言つた。「でもな、ひとりぢや淋しいだ。和尚さん、何も言はないで、一日自分の室に引籠《ひつこ》んでゐて、話もしねえから……」
「出て来ねえか。」
「出て来ねえどころか、飯に呼んでも、それがすむと、すぐ居間に入つて行つて了ふだでな。」
「本でも読んでるのか?」
「いや、本なんか一冊もねえ。」
「ぢや、物でも書くのか?」
「書きもしねえ。」
「それぢや唯ごろ/\してゐるのか?」
「唯、一日中ちやんと、机に向つて坐つてゐるだ。」
かう言つて、その婆さんは、比較的|詳《くは》しくかれの平生《へいぜい》の状態を世話人達に話した。葬式が来ると、古びた僧衣《ころも》を引かけて、黙つて本堂に行つて、いつものやうにお経を読んで、それがすむと、そのまゝ元のやうにその居間へ行つて坐つた。
「朝のおつとめは?」
「朝のおつとめなんかしねえ。」
「ぢや、葬式の時きり、お経はよまねえんだな?」
「さうだな、まア、よまねえつて言ふ方が好いだんべいな。それでも、此間、雨のふるさびしい日に、何《ど》うした拍子か、大方《おほかた》和尚《をしやう》さんも淋しかつたんだんべい。本堂でお経を上げてゐる音がするから、不思議に思つてそツと行つて見ると、本尊様の前で、一生懸命にお経を読んでゐるだ。それもいつもの葬式の時などに読むやうな小さな声ぢやねえだ。大きな声で、後《うしろ》に私が行つて見てゐるなどは夢にも知らねえで、一生懸命に読んで御座らつしやる。……不思議な気がしたにも何にも……」
「淋しいんだな、矢張《やつぱり》……」
「淋しかんべいよ。」
世話人達は、これでは駄目だと思つた。折角《せつかく》、寺の復活を考へて伴《つ》れて来たが、これでは駄目だ……。しかし、一人あゝして放《はふ》つて置くといふことが間違つてゐるのである。何処の寺でも、今では女房子を持たないものはない。和尚にも一人相応なのがあつたら、持たせるに限る……。かう世話人達は寄り合つて相談した。
しかし、あの寺に、あの廃寺に、本堂に雨が洩り、庇《ひさし》が落ちてゐるやうな寺に、誰が女房になりに来るものがあるであらうか。「とても来手《きて》はねえな。すたり者のねえツていふ女《あま》つ子《こ》だ。誰が物好きにあんな寺に行つてさびしい思ひをするものがあるもんか。」かうそこから出て来た婆さんは笑ひながら言つた。
世話人は猶《なほ》いろ/\なことを婆さんから聞いた。誰もたづねてくるものはないか。郵便は来ないか。又誰か訪《たづ》ねて和尚は行きはしないか。――その答はすべて No ! であつた。
ある日、世話人は二人して出かけた。一人はかれを都から此処に伴《つ》れて来たものであつた。かれ等は庫裡《くり》から入つて行つた。婆さんに出て行かれたかれは、ひとりぽつねんとして庫裡《くり》にゐた。かれはひとりで土鍋《どなべ》に飯を炊《た》いて食つてゐた。
「何うも世話をするものがなくつてお困りでせう?」
かう一人が言ふと、
「いや――」
「何うも矢張、お寺はさびしいと見えて、落附いてゐるものがなくつて困りましたな。」
「いや――」
「さぞ御不自由でせうな。」
「いや、別に……」
鬚《ひげ》の深く生えたのを剃《そ》らうともせずに、青白い肌膚《はだ》の色をその中から見せて、さびしげにかれは笑つた。
世話人達が齎《もたら》して来た話を聞いた時には、かれは何等の答をも与へなかつた。
かれは唯笑つた。それも快活に笑つたのではなく、にやにやと笑つたのでもなく、反抗的に冷かに笑つたのでもなく――唯、笑つた。
暫くしてかれは言つた。
「まア、暫く、かうやつて、落附かせて置いて下さい。……イヤ、世話するものなぞはなくつても好《よ》う御座んすから。」
「でも、相応なのがあつたら、一人お貰ひになる方が好う御座いませう。貴方だつてまだお若いんだから。」
「まア、その話は、もう少し先に寄つてからにして戴きませう。」
それより他に何も言はないので、世話人達は止むを得ずに引返した。
世話をする婆さんももうやつて来なかつた。かれは一人でその廃寺の中に埋れたやうにして住んだ。
小さな土鍋、一つの茶碗に一つの味噌椀、皿はところどころ欠けたのが二三枚あつた。腹が減ると、かれは立つて行つて、七輪に火を起した。
時には以前の生活がかれの心に蘇《よみがへ》つて来た。新しい思想のチャンピオンであり、「恐ろしい群」の第一人者であり、デカダンの徒の一人
前へ
次へ
全20ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング