その始末に困つた村の世話人達も、今ではこの盛《さかん》な光景に驚き且《か》つ怖《おそ》れた。遂には自ら熱心なる信者にならない訳に行かなかつた。
朝の読経《どきやう》の声は一村に響きわたつてきこえた。
しかし、慈海かれ自身は、決して以前の生活を改めなかつた。かれは寂然《じやくねん》として唯ひとりその室《へや》にゐた。小さな机、古い硯箱《すゞりばこ》、二三冊の経文、それより他はかれの周囲に何物もなかつた。かれは飢《うゑ》を感ずるのを時として、出て来ては七輪を煽《あふ》いだ。
しかも、かれの命を聞くをも待たずして、やがて本堂の破れた屋根は繕はれ、庇《ひさし》は新しくせられ、倒れかけた山門はもとの状態に修繕された。
女達は毎朝綺麗に廊下から本堂を掃除した。爺達《おやぢたち》は箒《はうき》を持つて一塵も残らないやうに境内を掃き浄《きよ》めた。若い女達はさま/″\の色彩を持つた草花を何処からか持つて来て栽《う》ゑた。
昔のさびしい荒れた中に寂然《じやくねん》として端坐してゐた如来仏《によらいぶつ》の面影《おもかげ》は段々見ることが出来なくなつた。大きな須弥壇《しゆみだん》、金鍍《きんめつき》をした天蓋《てんがい》、賓頭盧尊者《びんづるそんじや》の木像、其処此処に置かれてある木魚、それを信者達は代る代るやつてきて叩《たゝ》いた。
本堂も隙間がない位に一杯に信者が集つて、異口《いく》同音に誦経《ずきやう》した。その中に雑つて、慈海の誦経の声は一段高く崇厳に高い天井に響いて聞えた。
[#地から1字上げ](大正六年七月)
底本:「現代文学大系10 田山花袋集」筑摩書房
1966(昭和41)年1月10日発行
※疑問箇所の確認にあたっては、「定本花袋全集 第九巻」臨川書店、1993(平成5)年12月10日復刻版発行(元本は、内外書籍、1923(昭和12)年10月15日初版発行)を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2004年10月4日公開
2009年9月16日修正
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