で、街道に面した家の前には、馬に糧《かて》をやるために、運送の荷車などがよく来てはとまつた。上さんはふすま[#「ふすま」に傍点]を馬方の出した大きな桶《をけ》に入れてやつたりした。
上さんとその亭主の間には子供がなかつた。
亭主は四十五六位の正直な男で、せつせと箕《み》で大豆や小豆《あづき》に雑つてゐる塵埃《ごみ》を振《ふる》つてゐるのを人々はよく見かけた。
その村の不思議な僧の話を馬方や町の人達が上さんに話した。
始めはそれが自分の成長した寺での出来事とは知らず、また先代の放埒《はうらつ》のために廃寺同様になつてゐる寺にさういふことがあらうとは思はないので、好い加減に聞いてゐたが、その話が度々《たび/\》耳に入るので、ある時、
「何ツて言ふんだね、その寺は?」
「何ツて言つたけな……」馬方は考へて、「さう/\長昌院ツて言つたつけ。」
「長昌院?」
上《かみ》さんは眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
そればかりではなかつた。段々聞くと、その不思議なことをする僧は、かの女の知つてゐる慈海らしいので、いよ/\驚愕《きやうがく》の念を深くした。
「その和尚《をしやう》、慈海ツて言ひやしねいかえ?」
「何ツて言ふか名は知らねえが、何でも先代の弟|弟子《でし》だツて言ふこつた。」
「それぢや、慈海さんに違ひない。何時《いつ》から来たんだ?」
「何でも去年あたりだんべ。丸つきりお経べい読んでゐるツていこつた。」
「へえ?」
上さんの心は動かずには居られなかつた。東京に行つてからの慈海の噂《うはさ》も始めは少しきいてゐたので、さうした和尚になるとはちよつと想像が出来なかつたが、段々|聞糺《きゝたゞ》して見ると、てつきりそれは慈海であるに相違ないことが段々わかつた。
上さんは不思議にもぢつとしては居られなかつた。ある深い渇仰《かつがう》に似た念が溢《あふ》れるやうに漲《みなぎ》つて来た。それは昔の慈海に逢ひたいといふ心持ではなかつた。単になつかしいといふやうな心持でもなかつた。長年抱いてゐた重荷を下ろして救つて貰はなければならないやうな気がした。
店が忙しいために、その願ひも遂《と》げられずに幾日か経つたが、其間にも片時もそれを忘れることは出来なかつた。上さんは願《ぐわん》をかけて仏にお礼参りを怠つてゐるやうなすまなさを感じた。
ある晴
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