微かに照した。
流石《さすが》にかれは経を忘れなかつたが、しかし不思議な気がせずには居られなかつた。かれは読んで行く物の中に自分の遠い過去が再び蘇《よみがへ》つて来たのを感じた。始めは静かであつた声は次第に高くなつて行つた。その声の中にはまだけがれない無邪気な心が籠《こ》められてあつた。
暫くの間、その読経《どきやう》の声は、荒れたさびしい本堂の中にきこえた。
で、それがすむと、その父親は、そのまゝ小さな棺をかついで、サツサと墓地の方へと行つた。かれは不思議な気がせずには居られなかつた。かれはその姿の夕暮の闇の中に見えなくなるまで見送つた。
「仏は人間のことのすべてを知つてゐる。人間の犯した過去の罪を総《すべ》て知つてゐる。」かう思ふと、かれは其処に落着いてぢつとして立つてゐられないやうな心の恐怖を感じた。
急いで庫裡《くり》へと戻つて来た。
「何故《なぜ》、あの時、あの女はあの子を抱いて井戸に身を投じたであらうか。何故? 何故?」かうかれは心の中に絶叫して、長い間その答を待つたが、竟《つひ》にその答はやつて来なかつた。自己は自己である。愛した女だとて、自己の総《すべ》てを占領することは出来ない。それが出来ない為めに死んだとて、恨《うらみ》を他《ひと》に投げかけて死んだとて、それが誰の責任になるであらう。占領させなかつたこの自己がわるいのか。それとも又それを嘆いて子を抱いて死んだ女がわるいのであらうか。かれは其時は唯、「自己」に取縋《とりすが》つて強《し》ひてその苦痛を処分した。しかしそれで完全にそれが処分され解釈されたであらうか。かれは今でもその溺《おぼ》れた女と子供とが自分に向つてその解釈を求めてゐるのを覚えた。かれはぞつとした。
七
渡船小屋《わたしごや》の雁木《がんぎ》がずつと川に延びて行つてゐた。そこには船が一隻|繋《つな》いであつた。人が五人も六人も乗つて、船頭の下りて来るのを待つてゐる。大きな河は伝馬《てんま》やら帆やら小蒸気やらをその水面に載《の》せてたぷ/\として流れてゐる。櫓《ろ》の声が静かに日中の晴れた水に響いた。
帆が鳥の翼のやうに大きく動いた。
土手の上には、人や車が陸続として通つてゐた。氷店、心太《ところてん》を桶《をけ》に冷めたさうに冷して売つてゐる店、赤い旗の立つてゐる店、そこにゐる爺《おやぢ》の半ば裸体《
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