れて行く多くの青年たちと、事業を成しえずに亡びていくさびしい多くの心とを発見した。私は『田舎教師』の中心をつかみ得たような気がした。
 日記は、その死の前一日までつけてある。もちろん、寝ながら、かつ苦みながら書いたろうとおぼしく、墨もうすく、字も大きなまずく書いてあるけれども……。私はそれを見て泣きたいような気がした。遼陽の攻略の結果を、死の床に横たわって考えている小さなあわれな日本国民の心は、やがてこの世界的光栄をもたらしえた日本国民すべての心ではないか。
 それに、舞台が私の故郷に近いので、いっそうその若い心が私の心に滲《し》みとおって感じられるように思われた。日記を見てから、小林秀三君はもう単なる小林秀三君ではなかった。私の小林秀三君であった。どこに行ってもその小林君が生きて私の身辺についてまわってきているのを感じた。
 かれの眼に映ったシーン、風景、感じ、すべてそれは私のものであった。私はそこの垣の畔《ほとり》、寺の庭、霜解けの道、乗合馬車の中、いたるところに小林君の生きて動いているのを見た。
 H町の寺に行くと、いつもきまって私はその墓の前に立った。
 そこにはすでに友人たちの立てた自然石の大きな石碑が立てられてあった。そこに、恋もあり、涙もあり、未死の魂もあり、日本国民としての可憐《かれん》の愛国心が生きて蘇《よみがえ》ってきているのであった。私は野に咲いた花を折ってきてそこに手向《たむ》けた。
 私は秋の日など、寺の本堂から、ひろびろとした野を見渡した。黄いろく色ついた稲、それにさし通った明るい夕日、どこか遠くを通って行く車の音、榛《はん》の木のまばらな影、それを見ると、そこに小林君がいて、そして私と同じようにしてやはり、その野の夕日を眺め、荷車の響きをきいているように思った。
「悠々《ゆうゆう》たる人生だ」
 こうした嘆声がいつとなく私の口に上るのであった。
 戦場でのすさまじい砲声、修羅《しゅら》の巷《ちまた》、残忍な死骸、そういうものを見てきた私には、ことにそうした静かな自然の景色がしみじみと染《し》み通った。その対照が私に非常に深く人生と自然とを思わせた。
 ある日、O君に言った。
「弥勒《みろく》に一度つれて行ってくれたまえ」
 で、秋のある静かな日が選ばれた。私達は三里の道、小林君が毎日通って行ったその同じ道を静かにたどった。野には明るい日
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