『田舎教師』について
田山花袋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田舎《いなか》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)用水|縁《べり》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さい[#「さい」に傍点]
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 私は戦場から帰って、まもなくO君を田舎《いなか》の町の寺に訪ねた。その時、墓場を通りぬけようとして、ふと見ると、新しい墓標に、『小林秀三之墓』という字の書いてあるのが眼についた。新仏らしく、花などがいっぱいにそこに供《そな》えてあった。
 寺に行って、O君に会って、種々戦場の話などをしたが、ふと思い出して、「小林秀三っていう墓があったが、きいたような名だが、あれは去年、一昨年あたり君の寺に下宿していた青年じゃないかね」
「そうだよ」
「いつ死んだんだえ?」
「つい、この間だ。遼陽《りょうよう》の落ちた日の翌日かなんかだったよ」
「かわいそうなことをしたね、何だえ、病気は?」
「肺病だよ」
「それは気の毒なことをしたね」
 私はその前に一二度会ったことがあるので、かすかながらもその姿を思い浮かべることができた。私は一番先に思った。「遼陽陥落の日に……日本の世界的発展のもっとも光栄ある日に、万人の狂喜している日に、そうしてさびしく死んで行く青年もあるのだ。事業もせずに、戦場へ兵士となってさえ行かれずに」こう思うと、その青年、田舎に埋もれた青年の志ということについて、脈々とした哀愁が私の胸を打った。つづいて、『親々と子供』の中の墓場のシーンが眼に浮かんできた。バザロフとはまるで違ってはいるけれども……。
 私は青年――明治三十四五年から七八年代の日本の青年を調べて書いてみようと思った。そして、これを日本の世界発展の光栄ある日に結びつけようと思い立った。ことに、幸いであったのは、その小林秀三氏の日記が、中学生時代のものと、小学校教師時代と、死ぬ年一年と、こうまとまってO君の手もとにあったことであった。私はさっそくそれを借りてきて読んだ。
 この日記がなくとも、『田舎教師』はできたであろうけれども、とにかくその日記が非常によい材料になったことは事実であった。ことに、死一年前の日記が……。
 この日記は、あるいはこの小林君の一生の事業であったかもしれなかった。私はその日記の中に、志を抱いて田舎に埋も
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