市場で、白い大根や、蕪《かぶ》や、赤い芋が、山のように積みあげてありました。
「ほう、こんな所に芋があるのかなあ」それは新しい発見でありました。
「君、ここは神田の鍛冶町《かじちょう》だよ、ほら、
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神田鍛冶町の
角の乾物屋の勝栗《かちぐり》ア
堅くて噛《か》めない
勝栗《かちぐり》ア神田の……」
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「は、は、は、あの乾物屋だね、きっと」
 二人にとってはそんな風に、何もかも見るものすべて珍しく面白かった。どうしてだろう。学校を脱出《エスケープ》することは善いことではない。何故《なぜ》善いことでないか、それにははっきり答えることが出来ないのでした。それにもかかわらずこの航海は素敵におもしろいように見えるのでした。お祭よりも日曜日よりも、もっと、何かしら違った新しい誘惑がありました。
 学校の休日《やすみび》でない日に、こうして街を歩くということは、今まで曾《かつ》てないことでもあったし、冒険に似た心持がうれしいのだった。鎖を放たれた小犬のようにゆっくり歩くことが出来ないで、どんどんと駈《か》けだしました。けれど出窓のところに紅雀《べにすずめ》がいたり、垣根のわきに日輪草《ひまわり》が咲いていたりすると、きっと立止って、珍らしそうに眺めたり、手に触れるものは、きっと触って見るのでした。
 いつの間にか二人は、日本橋を渡っていました。それから二人はまた野犬《のらいぬ》のように、あっちへ鼻をくっつけたり、こっちへ耳を立てて見たりしながら、どこをどう歩いたのか、大きな川のそばへ出ていました。
「隅田川だね」
「ああ」
 ここまでやって来ると、もう二人ともすこし疲れて、それに腹がへっていましたから、ものを言うのさえ臆劫《おっくう》なのでした。だまって川の端の石の上へ腰をおろしました。
 一銭蒸気がぼくぼくぼくと、首だけ出して犬が川を渡るような恰好《かっこう》をして川を上ったり下ったりしていました。
「お腹《なか》がすいたね」
「君は弁当持ってる?」
「持ってない、君持ってるの」
「パンがあるよ」
 二人は一つの弁当をかわるがわるちぎって食べました。すると何か飲むものがほしくなりました。
 眼《め》の前には沢山水が流れていましたが、黄いろい色をした泥水でした。道の向うに、赤いカーテンを窓にかけた喫茶店がありました。金さえ持っていれば、あすこの椅子《いす》へ腰をかけて、ソーダ水でもチョコレートでも飲めるのだということを、二人はこの時はじめて気がついたのでした。
「君お金ある?」
「ああ、二十五銭」
「ぼく五銭だ」
「お茶が一杯ずつのめるね」
 二人は笑いませんでした。
「なんだか這入《はい》るのがきまりが悪いね」
「ああ、よそうよ」
 二人は喫茶店の店先までそっと歩いていったが、恰度《ちょうど》その時、中から女の笑声《わらいごえ》がしたので、びっくりして、小さい中学生達はどんどん逃げ出しました。
 敵がどこまで追跡してくるかわからないような気がして、なんでも、横町を三つばかり曲って、時計屋の飾窓の下まできて、ほっとして足をとめました。二人は、もう大丈夫だと思ったのです。
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ちっくたっく   ちっくたく
がっちゃこっと  がっちゃこっと
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いろんな時計が、いろんな音をたててうごいているのです。そして八時十五分のもあれば、二時四十分のもありました。
「幾時|頃《ごろ》なんだろう」
「時計屋の時計はあてにならないね」
 時計屋の隣の散髪屋の時計は、十二時を八分過ぎていました。その隣の果物屋のは、十二時五分前でした。なんしろ今頃学校にいれば午餐《ひる》をすまして、運動場でキャッチボールでもしている時間でした。
 二人はもうちっとも幸福ではありませんでした。何かしら重い袋でも背負っているように、その袋の中に何かしらない心配がつまっているような心持でした。
 学校がひける三時まで、こうして街を歩いているのが、とても苦しくて、罰をうけているようだと思われだしました。
「学校へいって見ようか」
「ああ」
 二人は、来た道を逆にまた学校の方へ歩き出しました。二人が学校のあの街の方まで辿《たど》りついたのは、三時を過ぎた時間だったと見えて、もうその辺に知った生徒達の姿は一人も見あたりませんでした。
 こわごわ門のとこまできてみると、大きな門はぴったり閉まって先生や小使が出入《でいり》する脇《わき》の小門だけが僅《わずか》に明いていました。
 すると砂利を踏む足音が門の中から聞えてきました。
「来た!」
「先生だ!」
 学校のわきが原っぱで、垣根の中にアカシヤの木が茂っていました。二人はその中へ飛込んで、死んだようにじっとして、眼《め》だけ動かしていました。
「あ、あれだ
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