先生の顔
竹久夢二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)葉子《ようこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|側《そば》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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   1

 それは火曜日の地理の時間でした。
 森先生は教壇の上から、葉子《ようこ》が附図《ふず》の蔭《かげ》にかくれて、ノートへ戯書《いたずらがき》をしているのを見つけた。
「葉子さん、そのノートを持ってここへお出《い》でなさい」不意に森先生が仰有《おっしゃ》ったので、葉子はびっくりした。
 葉子は日頃《ひごろ》から成績の悪い生徒ではありませんでした。けれど鉛筆と紙さえ持つと、何時《いつ》でも――授業の時間でさえも絵を画《か》きたがる癖がありました。今も地理の時間に、森先生の顔をそっと写生していたのでした。そして葉子は森先生を大変好きでした。
 森先生に呼ばれて、葉子《ようこ》はそのノートを先生の前へ出した。先生はすこし厳《こわ》い顔をしてノートを開けて御覧になった。するとそこには、先生の顔が画《か》いてあった。
 森先生は、それをお読みになって、笑いたいのを我慢して、やっとこう仰有《おっしゃ》った。
「今日は許してあげますけれど、これからは他《ほか》の時間に絵を画いてはいけませんよ。これは私が預っておきます」
 葉子はお辞儀をして静かに自分の席へつくと、教壇の方を見あげた。けれど森先生は、決して葉子の方を御覧にならなかった。葉子にはそれが心配でならなかった。
 やがて授業時間がすむのを待ちかねて、生徒達は急いで家《うち》へ帰っていった。葉子は一番最後に学校の門を出て、たったひとり帰ってきた。途途《みちみち》にも今日の地理の時間のことが心を放れなかった。

   2

 つぎの日、葉子はすこし早めに家を出て、森先生のいつも通っていらっしゃる橋の上で先生を待っていた。やがて先生は、光子《みつこ》という同級の生徒と連れだって歩いていらした。葉子は丁寧にお辞儀をした。先生は何事もなかった前のように、にこやかに「おはよう」を仰有った。それで葉子は、ほっと安心した。そしてうれしさに忙しくて、悪い気ではなく光子に「おはよう」を言うのを忘れていた。
「葉子さんおはよう!」光子はわざと意地悪く葉子の前へ突立《つった》ってお辞儀をした。そして「葉子さん、今日は廻《まわ》り道をしていらしたのね」
 と光子は科《とが》めるように言った。葉子は日頃《ひごろ》から意地の悪い光子が好きでなかった。
「ええ」と葉子はおとなしく答えた。
 森先生は、葉子のリボンをなおしてやりながら、
「葉子さんのお宅《うち》は山の方でしたねえ。お宅の近所の野原には沢山に草花が咲いていてどんなにか好《い》いでしょうね」
「先生はあんな田舎《いなか》の方がお好きですか」
「ええ、毎日でもゆきたいと思いますわ」
「先生、私の宅へいつかいらっしゃいましな。そりゃあ綺麗《きれい》な花があるの。だって、葉子さんのお宅の庭よかずっと広いんですもの」
 光子が勢《いきおい》こんで言ったけれど、誰《だれ》もそれには答えなかった。

   3

 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子《ようこ》は森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有《おっしゃ》らなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。
 光子《みつこ》は葉子が先生と一緒に学校へ来るのが妬《ねたま》しくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。
 葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、
「巴里《パリー》はどこの都ですか」とお訊《たず》ねになった。すると「佛蘭西《フランス》の都であります」と光子が嬉《うれ》しそうに答えた。
 地理の時間が終ると、運動場《うんどうば》のアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。
「葉子さん」そう言って後《あと》から葉子の肩を軽く叩《たた》いた。それは葉子と仲好《なかよし》の朝子《あさこ》であった。朝子は葉子の顔を覗《のぞ》きこんで「どうしたの」ときいた。
「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。
「そんなら好《い》いけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴《ちょうだい》な」
「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」
「さう、そりゃ
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