少年・春
竹久夢二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仰言《おっしゃ》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)子供|達《たち》もまた
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(例)[#ここから4字下げ]
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1
「い」とあなたがいうと
「それから」と母様は仰言《おっしゃ》った。
「ろ」
「それから」
「は」
あなたは母様の膝《ひざ》に抱っこされて居た。そとでは凩《こがらし》が恐《おそろ》しく吼《ほ》え狂うので、地上のありとあらゆる草も木も悲しげに泣き叫んでいる。
その時あなたは慄《ふる》えながら、母様の頸《くび》へしっかりとしがみつくのでした。
凩が凄《すさま》じく吼え狂うと、洋燈《ランプ》の光が明るくなって、卓《テーブル》の上の林檎《りんご》はいよいよ紅《あか》く暖炉の火はだんだん暖《あたたか》くなった。
あなたの膝《ひざ》の上には絵本が置かれ、悲しい語《はなし》のところが開かれてあった。それを母様は読んで下さる。――それはもうまえに百遍も読んで下さった物語であった。――その時の母様の顔色の眼《め》は沈んで、声は低く悲しかった。あなたは呼吸《いき》をころして一心に聴入るのでした。
[#ここから4字下げ]
誰《た》ぞ、駒鳥《こまどり》を殺せしは?
雀《すずめ》はいいぬ、われこそ! と
わがこの弓と矢をもちて
わが駒鳥を殺しけり。
[#ここで字下げ終わり]
これがあなたの虐殺者というものを聴知った最初であった。
あなたはこの恐ろしい光景を残りなく胸に描き得た。この憎むべき矢に射貫《いぬ》かれた美しい暖い紅の胸を、この刺客の手に仆《たお》れた憐《あわ》れな柔かい小鳥の骸《むくろ》を。
咽喉《のど》が急に塞《ふさ》がって、涙があなたの眼に浮かぶ。一滴また一滴、それが頬《ほお》を伝って流れては、熱いしかも悲しい滴りが、絵本のうえに雨だれのように落ちた。
「母様、駒鳥は可哀《かあい》そうねエ」
「坊や、泣くんじゃないよ」
「でも母様、雀が……雀が……こ……殺しちゃったんだもの」
「ああ、そうなの。雀が殺してしまったのよ。本にはそう書いてありますけれど、坊やは聞いたことがありますか」
「何《な》あに」
絵本は、その悲しい話の半面を語ったに過ぎなかった。他の半面は母様が知っていなさった。駒鳥は殺された。殺されて冷《つめた》い血汐《ちしお》のなかに横《よこた》わったことは事実であった。けれども慈悲深い死の翼あるその矢のために、駒鳥は正直な鳥の、常に行くべき処《ところ》へ行った。そしてそこで――ああ嬉《うれ》しい――彼は先へ行って居た自分の最愛の妻と子にそこで逢《あ》ったのでした。
「駒鳥の親子は、今はみんなそこに居るんですよ。この世に住んだうちでは一番しあわせな駒鳥なんだよ」と母様はあなたの涙に濡《ぬ》れた頬にキッスしながら仰言《おっしゃ》った。
大きく見ひらいたあなたの眼には、もう涙は消えていた。あなたは正直な鳥の行くべき処に居る駒鳥のことを遠く思いやった。駒鳥の眼、駒鳥の紅《あか》い胸は再び輝いて居た。彼は囀《さえず》り、歌い、そして妻子を連れて枝から枝へと飛び移った。小さい話を繕うことも、小さい人の心を繕うことも、小さい靴下を繕うことのように母様は実にお手に入ったものであった。こんな時にはいつも、あなたの靴下からは膝小僧が覗《のぞ》いて居た。日の暮れには、きまって靴下に穴があいて、そこから泥だらけな膝《ひざ》が見えるのでした。
「まあちょっと御覧なさい、たった今洗ってあげたばかりじゃありませんか」といって、母様はあなたがおよる前に、湯殿へ連れておいでになる。あなたは大きな盥《たらい》の縁に腰かけて、脚で水をぼちゃぼちゃいわせながら、母様の横顔を見ていた。
「まあ汚い児《こ》だねえ」と仰言《おっしゃ》って、母様はあなたの生傷のついてる真黒《まっくろ》な膝を洗っておやりになった。そして綺麗《きれい》になったところで、いつでもこう言いなさる。
「まあ、うちの光る児!」
そしてあなたの靴下は、あなたが朝お家《うち》を飛出す時にはいくら綺麗であっても、夕方またお家へ帰って来る時には、もう見るかげもなく汚れているのでした。そこで例によって、それ糸巻はどこにある? 糸は? 針は? という騒ぎが始まるのです。
夏の朝、母様は庭の離れでお針箱を側《そば》へ置いて縫物をなさるのが常だった。太陽は網の目のようになって居る木木の緑を透《とお》して金色《こんじき》の光を投げた。鳥も囀《さえず》りに倦《あ》き、風もまどろむおやつの時にも、母様はなおやめずに針を動かしておいでだった。日が暮れてお夕餉《ゆうはん》が済んでもなお母様は、黄色い洋燈《ランプ》の光のしたに針を動かしておいでだった。
「母様はなぜそんなにチクチクばかりしてるの?」
「坊やには青い水兵服と、嬢には紫のお被布を拵《こしら》えてあげようと思ってさ」
「母様はチクチクが好きなの?」
「そうとも思わないけれどね」
「だって……母様は飽きないの?」
「ああ、そりゃ時時はねえ」
「じゃお休みなさいよ。ねえ母様」
「お休みって? 坊や。ああ休みましょう。いま少し縫って、そしたら遊びましょう」
「だって、母様は、いま少し、いま少しって、一日かかっちまうんだもの、ねえ、母様てば、母様」
あなたは少し考えて
「もう縫わなくってもいいのよ」
「もういいって? この児は」と母様はお笑いなすった。あなたも笑った。
後にあなたは、
「母様とは私の面倒を見て下さって、私を可愛《かあい》がって、そして、いま少し、もう少しって――終日《いちにち》――縫物をして居る人です」
と人人に話してきかせたのでした。そうすると、その人達は、母様が子供達の面倒を見て下さるからには、子供|達《たち》もまた母様の為《ため》にしてあげなければなりません。とあなたに話しました。そして、あなたは実にその言葉の通りにやった。母様のまえに立塞《たちふさが》って、あなたは勇ましく拳《こぶし》を握りしめた。
「私の母様に触っちゃいけません!」
あなたの唇はわななき、眼《め》は怒《いかり》と涙で輝いて居た。けれども、母様はあなたをかばいながら、
「パパさんは、串談《じょうだん》なんですよ」母様はあなたを胸に抱きよせて、
「御覧よ、パパは笑ってらっしゃるよ」と仰言《おっしゃ》った。
パパは
「やアい、こわっぱ、パパは串談でやってるんだよ」
母様は、ほほえみながら、しかもほこりがに、あなたの涙を拭《ぬぐ》っておやりになった。あなたは、あなたの方へ手を差出して居るパパを、いぶかしげに見やった。そして母様に押されながら、おずおずとパパのところへ行った。
パパは仰言った。
「お前はいつでも今のように母様に尽さなければなりません。そしてパパが居ない時には、誰《だれ》でも他処《よそ》の人に、母様がいじめられないようにするんですよ」
母様はあなたの額にキッスして、
「母様を護《まも》る軍人なんだもの」
そしてこれからのちは、あなたが近くに居る時には、母様に心配はなかった。
「ああ、あの荒木《あらき》の奥さん、あれにはまた弱って仕舞うねえ」
と母様は低い声で仰言ったけれど、あなたはそれをきき逃さなかった。そして小さい全精神をあげて荒木夫人を憎んだ。ついにその奥さんの勘定日が来て、奥さん自身やって来た。母様は庭に居て聞きつけなかった。あなたは自分で挨拶《あいさつ》に出た。
「母様には、今日は、逢《あ》えやしないよ」あなたがしゃちこばっていうと
「それは変ですねえ」と荒木夫人は一足進んで言った。
「駄目だい」あなたは力一杯にドアにつかまって、声を張りあげた。
「駄目だよ。這入《はい》っちゃいけないよ」
「おせっかいだっちゃありゃしない」荒木夫人は、威《おど》しつけるようにいったけれど、あなたは、めげずに睨《ね》めつけて、声を張りあげ、
「もう、僕の母様にゃ逢《あ》えやしないよ」
と断乎《きっと》して繰りかえした。
「何故《なぜ》ですか? 承りたいものですが」と荒木《あらき》夫人はみるみるふくれあがった。
「いったい如何《どう》してなのです? それを聞きましょう」
「何故って、父様がいない時には母様の面倒を坊やが見てあげるんだい。母様が逢いたくないような奴《やつ》に母様がいじめられないようにしろって父様が言ったんだもの」
文句が長かったので、一息でいってしまうのは大抵の事ではなかった。
荒木夫人は干からびたような嘲笑《わらい》を洩《もら》して
「ああそういうんですか? それでお前さんは、何故お前さんのお母様が私に逢いたくないのか、その訳を知っていなさるかえ?」
「だって――母様、そう言ったもの!」
あなたの言ったことはきれぎれで恰度《ちょうど》「いろは」の御本を読むようだったので、荒木夫人は呑込《のみこ》めなかったかもしれなかった。
しかし、兎《と》に角《かく》、うまく行った。荒木夫人は火のように怒って、鼻息を荒くしながら、裾《すそ》を蹴返《けかえ》して帰って行った。
「もう決して決して」といって、門の戸をピシャリと閉めた。
あなたは静かにドアをしめた。
戦《たたかい》は勝てり!
あなたは庭へ引返した。
「もう済んだ、もう済んじゃった。」
「何がもう済んだっての、坊や」
「荒木の奥さん」とあなたは答えた。
こんな風にあなたは母様に尽した。母様はますますあなたを可愛《かあい》がり、あなたもますます母様に尽したのでした。この日頃《ひごろ》あなたは病気ではあったものの、なお且《かつ》機嫌がよかった。何故って母様がおいしい物を拵《こしら》えては、お茶碗《ちゃわん》に散蓮華《ちりれんげ》を添えて持って来て下さるたんびに、お代りのいるほど食べた――死なないって証拠のように。そうしては柔かい枕《まくら》をして母様が手づから拵えたツギハギの丹前を掛けて横になった。枕もとには母様が嫁入の時に着たキモノの絹の小さなキレや、母様がずっと昔、まだ桃割を結ってた時分の、他処行《よそゆき》のお羽織の紺青色のキレがあった。まだまだお祖母《ばあ》さんのキモノの柔かい鼠色《ねずみいろ》のキレや、春さんののであったピカピカ光る桃色ののや、父様が若かった男盛の頃《ころ》のネクタイだった條《すじ》のあるのや、藍色《あいいろ》ののや黄色いのもあった。病に疲れてものうく、眠《ね》む気《け》がさして、うっとりとして来るにつれて、その嫁入衣裳のキレは冷たい真白《まっしろ》な雪に変る。すると橇《そり》の鈴の音が聞えて来る。
隅っこの方に小さな教会のついて居るクリスマスカードが見える。その教会の塔は凍って居たけれど、その窓はクリスマスの輝きで明るく暖かかった。
つぎに紺青色のは空であった。
そして、それを見て居ると、小鳥や、星や、三月|弥生《やよい》のことなどが思い出されるのであった。
もしお祖母《ばあ》様ののであった鼠色《ねずみいろ》のキレに眼《め》を移すならば、緑色だった空は忽《たちま》ち暗くなって雨が降って来る。
けれどもお春さんののであった桃色のキレや、父様のだった藍色ののや黄色のを見さえすれば、すぐに花が咲いた、お日様がまた輝くのでした。
やがていろんな色がごっちゃになって、こんがらがってしまう、蒲公英《たんぽぽ》がちゃらちゃらと鳴ったり、橇の鈴や菫《すみれ》が雪のなかで花を開いたり。そしてあなたは眠ります。その眠りが小さな子供を健康にするのでした。
2
春が来た。
桜の枝には蜂《はち》と風とが音《ね》を立てて居る。庭にはあなたと母様と二人きり白い花弁が雪のように音もなく散りかかる。
小鳥は朝の輝きのうちに囀《さえず》っていた。
あなたは躍り、笑い、且《かつ》歌った。
あなたの大きくみひらいた眼には、果てなき大空の藍色と見渡す草原の緑とが映り紅を潮《さ》した頬《ほお》には日の光と微風《そよかぜ》とが知られた。
「母様見て御覧なさい、坊やが飛
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