上りますよ」
「まあ」
「今度は逆立ち」
「まあ、お上手だこと」
「母様、坊やは大きくなってから何になるか知ってますよ」
「何になるの」
「曲馬師になるの」
「まあ」
「大きい白い馬に乗って、ねえ母様」
「まあいいことね」
「そしてお月様なんか飛越しっちまうんだ」
「お月様を、まあ」
「ええお月様を、見て御覧なさい」と言ってあなたはそとにあった熊手《くまで》の柄を飛越えた。
それがお月様を飛越す下稽古《したげいこ》でした。
「けども坊やは曲馬師にはならないかも知れないの、きっと、ねえ母様」
「曲馬師にならないって」
「ぼくは、ジョージ、ワシントンのように大統領になるの、父様がなれるっていいましたもの、なれるでしょうか、え、母様」
「そうね、なれましょうよ、何時《いつ》か」
「だけども次郎坊《じろうぼう》なんかなれやしませんね、母様」
「何故《なぜ》次郎さんはなれないの」
「だって次郎坊は約束してもすぐ嘘《うそ》いうんだもの。ぼくは言わないの、ジョージ、ワシントンも言わなかったから」
「そうそうその方がいいんですよ、曲馬師と大統領とはまるで較《くら》べものになりません」
「ぼくは母様、ぼくきっと大統領になりますよ」
「まあいいこと、屹度《きっと》なるんですよ」
母様は離れで縫物を始めなさる。
「母様」
「はあい」
「今から歌を歌いますよ」
ほどよい庭へ真直《まっすぐ》に立ち、踵《きびす》を揃《そろ》へ両手を真直に垂れて「気を付け」の姿勢であなたは歌いはじめた。
[#ここから4字下げ]
天はゆるさじ良民の
自由をなみする虐政を
十三州の血はほとばしり
[#ここで字下げ終わり]
「もう少し静かにお歌いなさいな」と母様が仰言《おっしゃ》った。
[#天から4字下げ]天はゆるさじ良民の……
「それじゃあ聞えやしないわ」と母様はお笑いになった。あなたはちょっと、妙な笑いかたをしてまた声を張りあげる。
[#ここから4字下げ]
自由をなみする虐政を
十三州の血はほとばしり
ここに立ちたるワシントン
[#ここで字下げ終わり]
「まあお上手だねえ」と母様は仰言《おっしゃ》る。
「さあ今度は母様の番だよ。母様何かお噺《はなし》」
「お噺」
「ええあの菫《すみれ》のお噺」
「菫の」といって母様は、夢見るように針の手をとめて、
「青い青い菫が――」
「空のように青いのねえ、母様」とあなたは口を入れた。
「空のように青い、そう昔はね、この世界に菫が一つも無かったの」
「それからお星様もねえ、母様」
「ええ菫もお星様もこの世界になかったの。そこでねえ坊や、青い空をすこしばかり分けて貰《もら》ってそれを世界中に輝《かがやか》したものがあるの。それが菫の一番はじまりなんだよ」
「それからお星様は?」
「坊やは知ってるじゃありませんか。お星様はね、青い空の小さな穴ですよ。そこから天の光が輝く小さな穴ですよ」
「ほんとう、母様」とあなたは言って母様を見あげる。
母様の眼《め》は菫のように青く、星の様に輝いて居た。天《そら》の光が輝いて居ったから。
母様は世界中で一番不思議な人であった。
母様は嘗《かつ》て悪い事をしたことがなかった。そしていろんな事を知って居た。夜も昼も子供のことを見ておいでなさる神様をも知って居た。また神様はあなたの髪の毛の数さえも知っておいでなさるのみならず、子鳥が死ぬのをも一羽だっても、神様の知って居なさらぬことはないと母様は話してきかせなされた。
「そんならねえ母様、神様は、あの駒鳥《こまどり》の死んだ時をも知っているの?」
「知ってなさるとも」
「それじゃあ、ぼくが指を傷めた時をも、知っているの?」
「ああ、何でも知っていなさいますよ」
「そんなら、ぼくが指を傷めた時には、可愛《かあい》そうと思ったでしょうか、え母様」
「それは可愛そうだと思いなされたともね」
「じゃ、何故《なぜ》神様はぼくの指を傷める様になされたの?」
暫《しばら》く母様は黙っておいでだった。
「まあ坊やは、それは母様には解《わか》らないわ。神様より外には誰《だれ》も知らない事が沢山あるのです」
あなたは母様の言葉をあやしみながら、母様の膝《ひざ》のうえに抱かれて居た。
空のどこかに、雲のうえの輝き渡る大きなお宮の中に、金の冠を戴《いただ》いた神様がいらっしゃることをあなたは知って居た。そしてその下の緑の世界には、小鳥が死んだり、小さな子供が指を傷めて、母様に抱かれて泣いたりするのです。
神様はすべての事、すべての人を視《み》ていらっしゃった。けれどもそれを助けはなさらなかった。
あなたは、母様の頸《くび》に両手をまわして母様の胸に噛《かじ》りついた。
「母様! ぼく神様はいや、神様はいや!」
「何故坊やはそんな事いうの? 神様は坊やを可愛がってらっしゃるのに」
「だって、だって、母様、母様がなさる様じゃないもの、神様は母様のようじゃないんだもの」
蜂《はち》と風とは林檎《りんご》の枝に音を立てて居た。もう五月になったのだ。庭にはあなたと母様とただ二人、真白《まっしろ》な花びらが雪のように乱れて散る。あなたはお祖父《じい》様が拵《こしら》えて下すったブランコに乗った。
青葉の影はそよ風につれて揺れる。あなたの心はあなたの夢みるままに揺れた。
風は林檎の枝に歌い、花のたわわな枝は風に揺れ、風に撓《しな》った。
あなたの頭上はすべてこれ空飛ぶ鳥と、鳥の歌。あなたの周囲《まわり》はすべてこれ、風に光る草の原であった。
あなたはブランコが揺れるままに、何時《いつ》かしら、藍色《あいいろ》のキモノに身を包んで藍色の大海原を帆走る一個の船夫《かこ》であった。
風は帆綱に鳴り、白帆は十分風を孕《はら》んだ。船は閃《ひらめ》く飛沫《しぶき》を飛ばして駛《は》せた。鴎《かもめ》は鳴いて大空に輪を描《か》いた。そうしてあなたは、海の風に髪をなぶらせつつ、何処《どこ》までもと、ひた駛せに駛せた。
船は錨《いかり》を下した。
動揺は止んだ。
あなたはもとの子供であった。
「母様」
と夢心地であなたは静かに言った。声はまだ眠そうだった。母様は聞きつけなかった。母様はやはり離れで笑いながら坐《すわ》っておいでなされた。針の手は鈍って縫物が膝《ひざ》からすべり落ちそうであった。
あなたの母様は世界で一番優しい人、あなたはその母様の秘蔵っ子であったことを、今こそ知っては居るものの、あなたはその時まだそれを知らなかった。
母様の庭で、母様の膝の上で、母様の手に抱かれて、母様の頬《ほお》にあなたは両手をあてながら、母様の眼《め》の藍色《あいいろ》の床しさをあやしみつつ見詰めた。そして情あふれる母様の声を嬉《うれ》しくきいた。
「可愛《かあ》いい坊や」
「え」
「私の大切《だいじ》な大切な可愛いい坊や」
といって母様はあなたを胸に抱きよせて、頬ずりをなさる。
「何日《いつ》かねえ、このお庭で、この離れで母様は坊やの夢を見たのよ」
「坊やの夢を? えッ母様」
「ああ坊やの。恰度《ちょうど》この庭でね、そこの月見草が花盛りで鳥が鳴いて居たの。母様は、坊やが小さな赤ん坊だったところを夢に見たの。ああ、その時に風は月見草の花に歌をうたってきかせて居ましたよ。母様はねえ。坊やにねんねこ歌を歌ってきかせたのよ。そうするとねえ、坊やが私の方へ手を伸べて笑ったの、それから……ねえ、坊や……」
「でも母様、それは夢だったの」
「それはほんとの夢だったの、そしてそれがほんとうになったの。それは六月のある晩にほんとうになったの。――六月のおついたちに……」
「ぼくの誕生日に」
「坊やの誕生日に」
息もつがずあなたは言った。
「母様、美しい夢ね」
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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