しゃるのに」
「だって、だって、母様、母様がなさる様じゃないもの、神様は母様のようじゃないんだもの」

 蜂《はち》と風とは林檎《りんご》の枝に音を立てて居た。もう五月になったのだ。庭にはあなたと母様とただ二人、真白《まっしろ》な花びらが雪のように乱れて散る。あなたはお祖父《じい》様が拵《こしら》えて下すったブランコに乗った。
 青葉の影はそよ風につれて揺れる。あなたの心はあなたの夢みるままに揺れた。
 風は林檎の枝に歌い、花のたわわな枝は風に揺れ、風に撓《しな》った。
 あなたの頭上はすべてこれ空飛ぶ鳥と、鳥の歌。あなたの周囲《まわり》はすべてこれ、風に光る草の原であった。
 あなたはブランコが揺れるままに、何時《いつ》かしら、藍色《あいいろ》のキモノに身を包んで藍色の大海原を帆走る一個の船夫《かこ》であった。
 風は帆綱に鳴り、白帆は十分風を孕《はら》んだ。船は閃《ひらめ》く飛沫《しぶき》を飛ばして駛《は》せた。鴎《かもめ》は鳴いて大空に輪を描《か》いた。そうしてあなたは、海の風に髪をなぶらせつつ、何処《どこ》までもと、ひた駛せに駛せた。
 船は錨《いかり》を下した。
 動揺は止んだ。
 あなたはもとの子供であった。
「母様」
 と夢心地であなたは静かに言った。声はまだ眠そうだった。母様は聞きつけなかった。母様はやはり離れで笑いながら坐《すわ》っておいでなされた。針の手は鈍って縫物が膝《ひざ》からすべり落ちそうであった。
 あなたの母様は世界で一番優しい人、あなたはその母様の秘蔵っ子であったことを、今こそ知っては居るものの、あなたはその時まだそれを知らなかった。
 母様の庭で、母様の膝の上で、母様の手に抱かれて、母様の頬《ほお》にあなたは両手をあてながら、母様の眼《め》の藍色《あいいろ》の床しさをあやしみつつ見詰めた。そして情あふれる母様の声を嬉《うれ》しくきいた。
「可愛《かあ》いい坊や」
「え」
「私の大切《だいじ》な大切な可愛いい坊や」
 といって母様はあなたを胸に抱きよせて、頬ずりをなさる。
「何日《いつ》かねえ、このお庭で、この離れで母様は坊やの夢を見たのよ」
「坊やの夢を? えッ母様」
「ああ坊やの。恰度《ちょうど》この庭でね、そこの月見草が花盛りで鳥が鳴いて居たの。母様は、坊やが小さな赤ん坊だったところを夢に見たの。ああ、その時に風は月見草の花に歌
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