にか親友Aが後ろから聲をかける。
「そんなものはいらない、俺は人をやつつける氣がないから自分でも身を護らうとは思つてゐない。人間が人間をむやみに殺しはしないよ」
「でも村正だけは持つてゆきませうよ。まさかの時にはいつでも死ねるやうに」娘はさう言つて、しきりにトランクの底を探してゐる。娘は青い洋服をきてゐる、襟足のところに青いリボンで束ねた髪が搖れてゐる。いぢらしい後姿だ。こんな場面《シーン》がツルゲニエイフの「處女地」だつたか「貴族の家」だつたかにあつた、な。瞬間そんな考がちらと頭の中を過ぎる。
 この夢の中では、川下からやつてくる人間が動いてゐる姿勢でありながらちつとも近づいて來ないのだ。それが何だか非常に不氣味であつたやうにおもふ。
 その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。
 その頃は、
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