。
私は庭の方から窓の下へ歩みよつて、ガラス戸の外からモデル娘を覗いて見ました。娘は一生懸命に前髮の毛を指で引張つてゐるんです。それをどうするつもりなのか見てゐると、その髮の毛を鼻の上まで持つてきてそれを眼で見てゐるんです。自然兩方の眸がまん中へ寄つて、仁木彈正が忍びの術を使つてゐる時の、その眼をしてゐるんです。
私はあぶなく笑ひ出しさうになつたが、すぐに、何か不思議なものに打たれて、眞劍な心持ちになつてきました。
それはその眼のためではありません。自然のポーズでもありません。私は默つて見てゐられなくなつて、窓の外から「お光ちやん」と呼びかけました。その娘は、お光といふ名でした。
お光は、びつくりして振り返つて、親愛の心持をみんなその眼に集めたやうな眼ざしで私の方を見ながら立上りました。そして例の「まあ」を言つたものです。
あの、ちらと影をさして、すぐ消えていつた瞬間の美しさは、その二週間に、こつこつと描きあげた作品の中には、たうとう捕へることが出來ませんでした。
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市朝雜記
1
冬は紀州から蜜柑を積み、夏は團扇、扇子など商ふ紀友といふ老
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