もういつか實感に遠いものになつてゐる。たゞ、年の暮れてゆく姿ばかりが眼につく。
 いつもながら、場末の唐物屋にメリヤスの肌着が積まれ、大賣出しの立札がたてられ、三等郵便局の貯金口に人垣が作られ、南京豆の空袋が、風にふかれて露地を走る風景の中では、街角に傾いたまゝ突立つた瓦斯燈よりも、人間は慌しいと思ふことだ。
 もしそれ、新開地の洋食店のバルコンで廣告樂隊の奏する「煙も見えず」のマーチでも、うつかり聞されたら、今でさへとんでもない涙を流さうも知れぬ。
 といふのは、まだ家を持つたばかりの年の暮れに、その頃W大學の政治科にゐたNが來合せて、細君が鏡臺の引出しへしまつておいた正月餅の料を見付けて、どこかの斜めの細道で、「破門さん」と呼びかけられたのを、けつく好いしほにして、あくる日のまつ晝間、王道坦々と歸つてくると、家の近所の新開の洋食屋のバルコンで、件の「煙も見えず」の音樂だ。氣がとがめて、懐手で、政治科と二人で、空腹でものが哀れで、子供に交つて、ぼんやり樂隊を眺めてゐると、師走の二十九日のことだから、赤い手柄をかけた艶々の丸髷の女が、折も折、にこやかに近づいて來るのだ。それが細君で、讓
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