ゐて、その眼が一種間のぬけた好もしい感じを與へました。
そしてこの「まあ」といふ返事が、イエスでもノーでもないやうな、それでゐて、相手の言ふことをすつかり呑込んで、上手に受流したやうにも見えるのでした。だからある時などは、とても聰明な才女にさへ見えるのでした。さうかと思ふと、とてもとんちんかんな「まあ」であることもありました。
私の製作は二週間の豫定でした。なんでも最初の一週間が過ぎた日曜だつたと思ひます。私は、繪の具の買ひ足しにいつて、外から歸つてくると、そのモデルはこちらへ横顏を見せて、出窓のところへぢつと坐つてゐるんです。
よく電車の中などで、人に見られてゐることを少しも意識してゐないやうに見える女性の、自由な開放せられた美しさや、また反對に、女性が持つてゐる肉體的な無意識の嫌惡や謙讓や羞恥が反つて、肉感的な吸引力になつてゐることを、屡々見かけます。
また人が誰にも見られないで、たつた一人で何かしてゐるのを覗き見ることに惡魔的な喜びを感じることがあります。ことにそれが女性である場合、眠つてゐない限り、何等かの不思議な美しさを見せてくれるものです。丁度そんな機會だつたのです。
私は庭の方から窓の下へ歩みよつて、ガラス戸の外からモデル娘を覗いて見ました。娘は一生懸命に前髮の毛を指で引張つてゐるんです。それをどうするつもりなのか見てゐると、その髮の毛を鼻の上まで持つてきてそれを眼で見てゐるんです。自然兩方の眸がまん中へ寄つて、仁木彈正が忍びの術を使つてゐる時の、その眼をしてゐるんです。
私はあぶなく笑ひ出しさうになつたが、すぐに、何か不思議なものに打たれて、眞劍な心持ちになつてきました。
それはその眼のためではありません。自然のポーズでもありません。私は默つて見てゐられなくなつて、窓の外から「お光ちやん」と呼びかけました。その娘は、お光といふ名でした。
お光は、びつくりして振り返つて、親愛の心持をみんなその眼に集めたやうな眼ざしで私の方を見ながら立上りました。そして例の「まあ」を言つたものです。
あの、ちらと影をさして、すぐ消えていつた瞬間の美しさは、その二週間に、こつこつと描きあげた作品の中には、たうとう捕へることが出來ませんでした。
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市朝雜記
1
冬は紀州から蜜柑を積み、夏は團扇、扇子など商ふ紀友といふ老舖が日本橋七日市にある。
地震の際、主人何より先きに出入の職人の所へ樣子を身に往つた。着のみ着のまゝ避難してゐた職人を見て、まづ道具はと訊ねると
「如才はございません」と懐からバレンと刷毛《はけ》を取出して見せたといふ。紀友主人の感じていふ。さすが名人は違つてゐます、と。これが下職の名もない奴だとどさくさと逃げ後れたり、どちをふんできつと死んでゐるといふ。
そんな職人を抱へてゐる紀友の主人も、さすが名人だとおもふ。
聞く所によると、バレンなどといふものは、竹の皮のある時節のを採つてきて、たんねんに、纎をぬいて、それをより合せて長い綱にしてそれをぐる/\卷きこんで作るもので、とても手數と精進のいるものださうだ。そしてその刷る繪の線により面によつて、バレンの作り方も違つてゐるのださうだ。寫樂の不思議な鼻の線と、歌麿の脛のしなやかな線と、廣重の空の面を刷るバレンも手も違つてゐたのであらう。
刷色もまた、毛が切れて毛の尖端が割れてくるまで使ひこなしたのでないと、使へないものださうだ。
2
これも榛原の主人の話だが、小間紙をたつ職人がやはり地震の時、牛めし屋になつてゐるので、就いてきくと、たち庖丁を燒いたので、その邊の出來合では間にあはず、堺までいつて自分で自分の腕に合ふのを買ひにゆく旅費はなし、身に染みない仕事をするより、いつそ牛めし屋の方が氣樂ですからと、言つたと言ふ。この職人の自信もまたうれしいと思ふ。
3
ある學校の教師の話に
「ある學科を教へるに一時間では短いとおもふ。生徒も教師もその學科にやつと入つてこれからいう所で、ベルが鳴る。あれで一日に數時間、責任のない教授をしたつて、生徒は徒らに頭を掻亂するに過ぎないし、教師はただ申譯の時間を過すだけです」と。この話もおもしろいと思ふ。
4
間にあわせの文化生活、文化建築、バラツク文明、活動寫眞のセツトのやうな都市、そして活動のフヰルムのやうな生活者達。
5
かりの住居に植ゑた業平竹が今年の春は、もう欝然とした藪の趣きを持つてきた。たま/\古い落葉をかいてゐると、素足の足の裏をさすものが至る所にある。四月十六日。それは筍だ。去年の竹の秋に植ゑたのも、一昨年二三本植ゑたのも、一齊に今年は筍を出してゐる。その根はもう三尺四尺の長さにまで地中にはびこつてゐる
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