が、地方の農家で婚禮の時に使ふ簟笥掛だの傘袋だの風呂敷の紺木綿の模樣《デザイン》が、悉く天平物です。女の顏もやはり天平顏ですね。そのくせ男の顏は諸國の影響を受けてゐるせゐか、純粹の大和民族といふ趣はありませんね。ぼくはこゝで降ります」
 須田町で降りてぼんやり――さうだ、ぼんやりという姿勢《ポーズ》ではあつたが、なか/\ぼんやりしてはゐなかつた。電車や自動車になど脅かされるのがいま/\しいから、銅像の下へ立つてゐたのだ。いつもこゝを通る時、電車の窓から見えるのは、中佐殿の脚下に見得をきつてゐる何とか曹長の顏だけだが、今夜はつく/″\中佐殿の雄姿も仰ぎ見ることを得た。中佐殿はまだ好いが、曹長の耕されてゐない、何を植えても生えさうもない荒地のやうな、せゝこましい、とても怨めしさうな勇しさは、今にも躍りかゝつて、さうだ何の見わきまへもなく劍附鐵砲で突刺されさうなのであつた。
 それから無宿の神樣は、信ずる者の所へいつたであらうか、それを知つてゐるのは、お月樣だけでありました。

   山の話
 登山會といふ會はどういふことをするのか私は知らないが、多分、人跡未踏の深山幽谷を踏破する人達の會であらう。自分も山へ登る事は非常に好きだが、敢て、高い山でなくとも、岡でも好い。氣に入つたとなると富士山へ一夏に三度、筑波、那須へも二度づゝ登つたが、いつも東京の街を歩くよりも勞れもせず、靴のまゝで散歩する氣持で登れた。その位な登山の經驗で山を語る資格はないのかも知れないが、山は必ずしも登らないでも眺めても、好いものではないだらうか。九州の温泉岳は就中好きな山だつたが、島原町の船の中から望み見た山のたゝずまひは、石濤の畫いた繪そのまゝの、近づきがたい容威と、抱きよせるやうなシヤルムを持つてゐる。誰が名づけたか島原では眉山と呼んでゐる。島原の港を前景にして九十九島の島影に船を浮べて見る眉山は、仰ぐといふほど近くなく、望むといふほど遠くなく、實に程好い麗しさと險しさを持つている。この土地で盆祭りや精靈流しのことも書きたいが山の話に返らう。
 海から見る山では、讃岐の象頭山と神戸の摩耶山を思ひ出す、象頭山は十六歳の私、郷里を落ちて九州へゆく時祖父と二人酒船の中から見たのと、神戸の中學へ入學した年、船の中から見た摩耶山は今も忘れないが、今見たらつまらない山かも知れない。しかし紀州灘で見た熊野の連峰や、鳥海山や、彌彦山は今見ても好からうと思はれる。
 山は成長するものか、衰退するものか知らないが、文晁の名山畫譜を携へてあの山々を見較べて歩いたら面白からうと思つた事がある。文晁畫譜は彼が初期の作であらうか、非常に寫實に畫いてゐるから、日本畫の弊として筆勢らしいものがいくらか山の特性を失つてゐるかも知れないとしても、克明に寫生して後世に殘したものは有難いと思ふ。
 いつの夏であつたか、加賀の白山つゞきの藥王山の麓にある、湯涌という温泉にゐたことがある。ある日曜日に金澤から見舞に來て呉れたN君と、晝飯をすまして宿の二階で、參謀本部の地圖を展げて見てゐると、湯涌村から地圖の上で二三寸山の方へ入るともう路が盡きてゐる。參謀本部の地圖に描いてない位だから人跡未到の地だ。
「一つ探險に出かけませうか」
 そんなことを言つて出かけた。
 地圖を見ながら、二里――或は三里ともまだ上がらないうちに果して路は盡きてゐる。地圖によると左右に二つばかりの峰を越えて藥王山があるわけだつた。左手の方は白山まで地圖の上で七八寸ある。
「どちらへ行つたものだらう」
 獨歩は「武藏野」の中に「路がわからなかつたらステツキを立てゝそれの倒れた方へゆけ」と書いてゐたが、吾々は白山の方へ向つて歩いた。さう書くといよ/\探險らしいが、登山らしい何の用意もなかつたことだし、實は、自分達は湯涌へ流れ落ちてゐる川が、今自分達の歩いている峰の左手は谷にある筈だから、どんなに間違つても川の方へさへ辿りつけば路を迷ふ氣遣はあるまいといふ、用意周到な冒險であつた。
 それがN君は、親讓りの時計についた磁石を取出して方向を見たりして、ひとかどの冒險らしく振舞つたことが、その時は、さほどをかしくも不自然だとも思はなかつた。
 昨夜からひどく降つた雨も、今朝からすつかり上つたけれど、雨の多い山國の初秋のことで、鼠色の雲が空を閉ざし、白い雨雲が國境の方の峰から走つて來ては、足もとをかすめては谷を越えて、向ふの峰へ飛んでゆくのが、冒險家に一入の風情を添へたのだつた。
 一つの峰を越えて次の谷へかゝつた時には、足許がかなり危かつた。雨上りの岩角は滑るし、土の肌の見えないまで落ち積つた枯葉は、ねと/\と靴を没して、歩き辛いこと夥しい。はじめのうちは、珍らしい蕈や、見たこともないやうな草花を寫生したり、採集したりしたが、今はもう、
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