」]。昨夜夜を徹して細君の縫つてくれた浴衣が何か身に添はぬつれない心持を感じながら袖を引張つて見た。
「みんな幸福なんだ」
花火船の客はもう萬世のあたりできこしめしたらしく隣りの船の若い女に戲談を投げかけてゐる。
音がするたびに、川にも岸にもまつ黒に埋まつた人間が一樣に顏をあげて空を見る。松二郎も附合のやうに空を見あげた。赤い達磨がふわりふわりと飛んで行く。松二郎は達磨が憎らしかった。
お縫さんは、次の間でいましも浴衣に着換へて、時藏の夏祭の女房のやうに團扇で裾をおさへて、あでやかに、しかし美しさを惜し氣もなく笑ひながら、皆の前にきて坐つた。
お縫さんはなんにも知らないのだ。松二郎が人知れず戀してゐることも、自分のあたらうつくしさも。
「さあ船へ乘る前に一首づつ作つて下さい」
幹事がさう言つて促した。
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廣重のあさぎの空についついと
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のぼる花火をよしと思ひぬ
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田之助に誰やら似たり薄墨の
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山谷をいづる影繪舟かな
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これはお縫さんの歌である。なんという威勢の好い歌であらう。田之助はほつそりした美男であつたのに、私はこんなに丸つこく肥つてゐる。松二郎は身にあはぬ、浴衣の袖を今更のやうに引張りながら考へるのだつた。
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わが戀はあさぎほのめくゆふそらに
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はかなく消ゆる晝の花火か
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細腰の紅《あけ》のほそひもほそぼそに
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消ぬがにひとの花火見あぐる
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ほのかなる浴衣の藍の匂より
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浮き名のたたばうれしからまし
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東京地圖
東京に住んでゐては、東京のどこが好いのか、なぜ好きなのか解らないが、東京の新聞も入らないやうな山間の温泉場などへいつてゐて、雨に降りこめられて寫生にも出られないし、持つて來た本も讀みつくした時など、どうかして東京地圖など熱心に見てゐることがあります。なかなか懷しいものです。この町にもこの町にも住んだことがある、さう思ひながら、その時の生活や、生活の感覺を思ひ出します。
物心がついてからずつと東京に住んだ私にとつては、一片の東京地圖は、實に有機的な私の人文科學史です。いろんないやな記憶さへ、自分を憐む材料にさへ役立ちます。
少年の頃、鹽原の奧で桐の空の咲いた畑の端に腰かけて、電車の往復切符を、ポケツトから見出して、東京へ寄せる感傷的な詩をかいたことを思ひ出します。
さてどこが好きなのか、何故好きなのか、理窟はありません。おそらく日本の國土も、異國の旅へ出たらこんな風に思ひ出されることでせう。
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夏の街をゆく心
少くも夏の街を享樂しようと思ふには、目的や約束があつてはいけません。といふのは、銀座のさえぐさへ寄つて絹のレースの肌着を買ひ、はいばらへいつて小菊を五帖買ひ、太郎の靴を三越へ註文して菊屋の※[#「○の中に五」、47−6]のかまぼこを買つて、明治屋でサーヂンだのチーズだのオートミール、バタ、マカロニ等等等を買ひ込んで、ついでに田屋へ寄つて、あの人の帽子を見立てたり、コテイのシヤボンも買はなければならぬほどしこたまプログラムを持つてゐては、ゆつくりアイス・クリームを呑む氣にもなれないではありませんか。
しかし、腕時計をちよい/\見ては、プログラムをはかどらせて、電話で家から自動車を呼んで、事務的に用をたして歩くことの好きな貴婦人には、まあ夏の街をゆく心持などには御用がないはずです。
夏の街を享樂する人は、贅澤に時間を使用することを知つてゐる人です。目的や約束がないのだから、すいた電車が來るのを待つか、遠いところでなければ、少し廻り道してもぶらりぶらりと歩くことです。
震災後東京も、散歩するに好い街はほどんどなくなつてしまひました。我々の散歩地は必ずしも睛れやかな歩道でなくても、表通りでなくても好いのです。それよりも仲通りの靜かな、あんまり繁昌しない取殘された老舖や、風雅なくぐり門のある裏町は好もしいものです。
文明開化當時、煉瓦地と呼ばれた銀座通りの柳もなつかしいが、裏通りの金春とか、河岸からあの邊一帶はよかつた。采女橋を渡つてから築地、三一教會の四つ角か築地ホテルのあたりの街のたゞずまひは、路の果てにちらちら水が見え、赤い煉瓦の建物の間を、灰色の帆がぬうと通つてゆくのです。唐人髷に結つた中型のお七帶かなんかをしめた下町娘が小走りに、明石町から箱崎の方へ橋を渡つてゆく風景は、今は昔です。
鎧橋から海運橋、堀どめと、あの汚い河だが水に青ざめた影を落す並藏は、夏のゆふかたに
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