。その忍び忍んだ營みの嬉しさ。
 筍のすい/\と初夏の空へのびてゆく、生一本なそして澄み切つた美しさ。竹の葉の、鋭くてもすすどくない、微風にもなびくが、しかし弱くない。枯淡でも偏らない趣き。また朝の日に冴え返つた竹の影の、寂びながら、淋しくない美しさは、一年生の西洋草花の持たない深い美しさだ。
       6
 東洋の藝術は天のもの、西洋の藝術は地上のものだと、誰だつたか西洋人の言つたことだが。この言葉が語る意味や心持も、さう言つた西洋人の理解と、それを肯定する日本人の心持には違つたものがあるのであらう。
 そこがおもしろいとおもふ。
       7
 人生派はいふ。
「人類のための藝術」と。
 さて、いつの時代にか結局人類のための藝術でなかつた藝術があつたであらうか。
 いや、民衆の中から生れ、民衆の生活に觸れて來ないやうな藝術品はもはや過去のものだといふのだ。農民さへも藝術品を作るではないか、と言ふのだ。
 間に合せの、いまのバラツク式生活に間に合つたり、便利である程度の藝術が人類の藝術で、これが未來の芸術のゆく道であると、彼等は主張するのであるか。
 かういう連中と、私達は藝術について語ることを恥とする。
       8
 藝術の傳統を重じなければならぬとは思つてゐない。しかし傳統の中に流れてゐる、永遠なるものには頭がさがる。
 とてつもない新しい作品をその樣式や技巧の奇怪なるために笑ふわけにはゆかない、屡々そこに永遠なるものが影をさしてゐるから。
       9
 若い日本畫家の中には、粉本の中の傳統を古しとなし、ぎこちない日本畫の材料で外國風な描寫をしようとあせつてゐる。彼は、傳統と共に、永遠なるものまで捨てたのだ。
 ある西洋畫家の中には、東洋的なものをすべて善しとなし、永遠なるものの代りに黴の生えた趣味だけを眺めて、松籟の聲か何かを、とても寂しがつて聞いてゐる。
       10
 水泳の稽古をしてゐるのを見てゐると、漁師の子供は、いきなり水の中にもぐることからはじめる。素人の大人は、のつけから波に乘つて泳ぐことを急ぐ。前者はよく水を理解して溺れることはない。後者はいつまでたっても泳げないか、よし泳げても屡々溺れる。
 ある日、北の方の田舍から、自分の描いた習作を携へて、見てくれと言つて、私を訪ねた青年があつた。
「この手は、ルーベンスの素描
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