だ。ちよつといま見あたらないが、柿色の日傘をさして古風な越後上布をきた田舍娘がほこりにまみれた白足袋をはいて音をたてて橋を渡つていつた姿をおぼえてゐる。あの邊から膳所はすぐ近所だつたかしら、さうだ大津から膳所瀬多と湖上汽船でいつたやうにおもふ。湖を越えて見る比叡比良から丹波境の連山の美しさは、山脇信徳君の油繪のやうに美しい。近く伊賀美濃の國境の白い山ひだも美しかつた。
 東海道線の急行列車に乘つて上方へゆく時、彦根あたりを通る頃が、恰度朝餉の時間だつたかして、私はよく食堂から三上山と彦根の城とを見る。彦根を過ぎてしばらく、多分、瀬多の少し手前だつたとおもふ。そこにいつもきつと私の注意をひく景色が一つある。
 こゝまで書いて思ひついて探して見たら手帖の中に、たしかそれは食堂車の窓から心覺えに寫しておいたらしいスケツチを見出したからここへ寫して見よう。繪にそへてかう書いてある。
「彦根から手前へ小さいトンネル、僅か一列車ほどのトンネルをぬけてすぐ湖の岸のけしき、いつも通るたびに心を引かれる景色」とある。
 その時のつもりは、いつかここへ寫生に來たいとおもつて仔《くは》しく書きとめておいたものと見える。いつも汽車の窓から見るだけでまだ一度もそこへ降りたことはないが、なんしろ心をひかれる景色だ。小杉未醒君が描いたらきつとうまいものが出來るだらうと思はれるやうな風景だ。
 スケツチを見てゐたら、すこしセンチメンタルになつてきた。冒頭に書いた小唄は、しかし、このセンチメンタルに關係はないのです。
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     春いくとせ

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いつか忘れてゐた言葉
あなたが拾つてもつてゐた
いくねんまへの
春だつた
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「青麥の青きをわけて、逢ひにくる。だつたかしら、そんな歌もおぼえてゐますわ」
「女つていふものは、變なことをよくおぼえてゐるものですねえ」
「月日だつてちやんとおぼえてゐましてよ」
「さうかなあ。そのくせナポレオンがセントヘレナへ流された日なんか忘れてゐるでせう」
「なんでも櫻の花がまるで雪のやうに青麥の間へたまつてゐました。ネルのキモノの袖口からくすぐつたい南風が吹いてくる日でしたわ」
「そんなにいろんな過去をおぼえてゐたら生きてゐることがずゐぶん負擔になりやしませんか」
「いやなことより好いことの方をよけいにおぼえてゐま
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