くり返つてやりたいだけのことさ。それにしても、ええ、忌々しいつたらない! そこでおれはこの馬鹿げた犬の手紙をずたずたに引き裂いてしまつた。
十二月三日
馬鹿な! そんなことつてあるものか。結婚などさせて堪るかい! 侍從が何だい? ただの官職に過ぎないぢやないか――手に取つて見られる代物でもなしさ。なにも侍從だからつて額にもう一つ餘分に眼玉がくつついてゐる譯でもあるまい。まさか鼻だつて金製でもあるまい。おれの鼻だつて誰の鼻だつて鼻に變りはない筈だ、侍從だからつて鼻で匂ひは嗅ぐだらうが、まさか飯は食ふまいし、鼻で嚔みはしても咳は出來まい。おれはこれまでにももう何度も、どうして人間にはかう身分に差別があるのか、ひとつ究明したいと思つたものだ。なるほど、おれは九等官だが、どういう理由《わけ》で九等官なのだらう? もしかしたらおれは全然九等官なんかぢやないかも知れん。ひよつとすると、おれは伯爵とか將官とかいふ身分でありながら、ただこんな風に九等官に見えてゐるだけかも知れない。ひよつとすると、おれは自分がどういふ者だか、自分でも知らずにゐるのかも知れん。人の傳記にもずゐぶんとさういふ例はあるもので、士族ならまだしもつまらない素町人とか、いやそれどころか、たかが水呑百姓といつた賤しい人間が、何かの彈みで素性がわかると、思ひもよらぬやんごとない貴人だとか、男爵だとか、さういつた素敵もない身分の人間だつたりすることがある……。水呑百姓でさへさうなんだもの、士族のおれからはどんな偉いものが飛び出すか分つたものぢやない。それで、もしこのおれが將官の禮裝でもつけてあの邸へやつて行くとする――そのおれの右の肩にも肩章《エポレット》、左の肩にも肩章《エポレット》、肩からは藍色の大綬章が斜《はす》に掛かつてゐようといふ、りうとした扮裝《いでたち》だつたらどうだろう? あの別嬪がその時どんな音《ね》をあげるだらうなあ? あの父親《おやぢ》は、うちの局長は、いつたい何と言ふかしらん? なかなかどうして、大變な食はせものだからなあ! あいつはマッソンなのさ、正眞正銘のマッソンにきまつてらあ。なんのかんのと、しらばくれてはゐるけれど、大將がマッソンなことは一眼でちやんと睨んでゐらあ――だつて、その證據には、挨拶のために手を差し出す時、指を二本しか出さないぢやないか。なあに、このおれだつて、直ぐ
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