外套
ニコライ・ゴーゴリ
平井肇訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)危殆《きたい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)保証|請合《うけあい》ですよ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》
*:注釈記号
(底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)*暦の別の個所を
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ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。今日では総じて自分一個が侮辱されても、なんぞやその社会全体が侮辱されでもしたように思いこむ癖がある。つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、さる警察署長から上申書が提出されて、その中には、国家の威令が危殆《きたい》に瀕していること、警察署長という神聖な肩書がむやみに濫用されていること等が明記されていたそうである。しかも、その証拠だといって、件《くだん》の上申書には一篇の小説めいたはなはだしく厖大な述作が添えてあり、その十頁ごとに警察署長が登場するばかりか、ところによっては、へべれけに泥酔した姿を現わしているとのことである。そんな次第で、いろんな面白からぬことを避けるためには、便宜上この問題の局を、ただ【ある局】というだけにとどめておくに如《し》くはないだろう。さて、そのある局に、【一人の官吏】が勤めていた――官吏、といったところで、大して立派な役柄の者ではなかった。背丈がちんちくりんで、顔には薄あばたがあり、髪の毛は赤ちゃけ、それに目がしょぼしょぼしていて、額《ひたい》がすこし禿《は》げあがり、頬の両側には小皺《こじわ》が寄って、どうもその顔いろはいわゆる痔もちらしい……しかし、これはどうも仕方がない! 罪はペテルブルグの気候にあるのだから。官等にいたっては(それというのも、わが国では何はさて、官等を第一に御披露しなければならないからであるが)、いわゆる万年九等官というやつで、これは知っての通り噛みつくこともできない相手をやりこめるというまことにけっこうな習慣を持つ凡百の文士連から存分に愚弄されたり、ひやかされたりしてきた官等である。この官吏の姓はバシマチキンといった。この名前そのものから、それが短靴《バシマク》に由来するものであることは明らかであるが、しかしいつ、いかなる時代に、どんなふうにして、その姓が短靴《バシマク》という言葉から出たものか――それは皆目わからない。父も祖父も、あまつさえ義兄弟まで、つまりバシマチキン一族のものといえば皆が皆ひとりのこらず長靴を用いており、底革は年にほんの三度ぐらいしか張り替えなかった。彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前はけっしてことさら選《え》り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。つまり、それはこういうわけである。アカーキイ・アカーキエウィッチは私の記憶にして間違いさえなければ、三月二十三日の深更に生まれた。今は亡き、そのお袋というのは官吏の細君で、ひどく気だての優しい女であったが、然るべく赤ん坊に洗礼を施こそうと考えた。お袋はまだ戸口に向かいあった寝台に臥《ふせ》っており、その右手にはイワン・イワーノヴィッチ・エローシキンといって、当時元老院の古参事務官であった、この上もなく立派な人物が教父として控えており、また教母としては区の警察署長の細君で、アリーナ・セミョーノヴナ・ビェロヴリューシコワという、世にもめずらしい善良温雅な婦人が佇《たたず》んでいた。そこで産婦に向かって、モーキイとするか、ソッシイとするか、それとも殉教者ホザザートの名に因《ちな》んで命名するか、とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶようにと申し出た。「まあいやだ。」と、今は亡きその女は考えた。「変な名前ばっかりだわ。」で、人々は彼女の気に入るようにと、*暦の別の個所をめくった。するとまたもや三つの名前が出た。トリフィーリイに、ドゥーラに、ワラハーシイというのである。「まあ、これこそ天罰だわ!」と、あの婆さんは言ったものだ。「どれもこれも、みんななんという名前でしょう! わたしゃほんとうにそんな名前って、ついぞ聞いたこともありませんよ、ワラダートとか、ワルーフとでもいうのならまだしも、トリフィーリイだのワラハーシイだなんて!」そこでまた暦の頁をめくる
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