と、今度はパフシカーヒイにワフチーシイというのが出た。「ああ、もうわかりました!」と婆さんは言った。「これが、この子の運命なんでしょうよ。そんなくらいなら、いっそのこと、この子の父親の名前を取ってつけたほうがましですわ。父親はアカーキイでしたから、息子もやはりアカーキイにしておきましょう。」こんなふうにして*アカーキイ・アカーキエウィッチという名前はできあがったのである。そこで赤ん坊は洗礼を受けたが、その時彼はわっと泣き出して、あたかも将来九等官になることを予感でもしたようなしかめ面《つら》をした。要するに事のおこりはすべてこんな具合であったのである。こんなことをくだくだしく並べたのも、これが万《ばん》やむを得ぬ事情から生じたことで、どうしてもほかには名前のつけようがなかったといういきさつを、読者にとくと了解していただきたいためにほかならないのである。いつ、どういう時に、彼が官庁に入ったのか、また何人《なんびと》が彼を任命したのか、その点については誰ひとり記憶している者がなかった。局長や、もろもろの課長連が幾人となく更迭しても、彼は相も変らず同じ席で、同じ地位で、同じ役柄の、十年一日の如き文書係を勤めていたので、しまいにはみんなが、てっきりこの男はちゃんと制服を身につけ、禿げ頭を振りかざして、すっかり用意をしてこの世へ生まれてきたものにちがいないと思いこんでしまったほどである。役所では、彼に対しては少しの尊敬も払われなかった。彼がそばを通っても守衛たちは起立するどころか、玄関をたかだか蠅でも飛び過ぎたくらいにしか思わず、彼の方をふり向いてみようともしなかった。課長連は彼に対して妙に冷やかな圧制的な態度をとった。ある課長補佐の如きは、「清書してくれたまえ。」とか、「こいつはなかなか面白い、ちょっといい書類だよ。」とか、またはおよそ礼儀正しい勤め人の間で普通にとりかわされている何かちょっとしたお愛想ひとつ言うでもなく、いきなり彼の鼻先へ書類をつきつけるのであった。すると、彼はちらと書類のほうを見るだけで、いったい誰がそれを差し出したのやら、相手にはたしてそうする権利があるのやら、そんなことにはいっこう頓着なく、それを受け取る。受け取ると、早速その書類の写しにとりかかったものである。若い官吏どもは、その属僚的な駄洒落の限りを尽して彼をからかったり冷かしたり、彼のいる前で彼についてのいろんなでたらめな作り話をしたものである。彼のいる下宿の主婦で七十にもなる老婆の話を持ち出して、その婆さんが彼をいつも殴《ぶ》つのだと言ったり、お二人の婚礼はいつですかと訊ねたり、雪だといって、彼の頭へ紙きれをふりかけたりなどもした。しかし、アカーキイ・アカーキエウィッチは、まるで自分の目の前には誰ひとりいないもののように、そんなことにはうんともすんとも口答え一つしなかった。こんなことは彼の執務にはいっこうさしつかえなかったのである。そうしたいろんなうるさい邪魔をされながらも、彼はただの一つも書類に書きそこないをしなかった。ただあまりいたずらが過ぎたり、仕事をさせまいとして肘《ひじ》を突っついたりされる時にだけ、彼は初めて口を開くのである。「かまわないで下さい! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?」それにしても、彼の言葉とその音声とには、一種異様な響きがあった。それには、何かしら人の心に訴えるものがこもっていたので、つい近ごろ任命されたばかりの一人の若い男などは、見様見真似で、ふと彼をからかおうとしかけたけれど、と胸を突かれたように、急にそれを中止したほどで、それ以来この若者の目には、あたかもすべてが一変して、前とは全然別なものに見えるようになったくらいである。彼がそれまで如才のない世慣れた人たちだと思って交際していた同僚たちから、ある超自然的な力が彼をおし隔ててしまった。それから長いあいだというもの、きわめて愉快な時にさえも、あの「かまわないで下さい! 何だってそう人を馬鹿にするんです?」と、胸に滲み入るような音《ね》をあげた、額の禿げあがった、ちんちくりんな官吏の姿が思い出されてならなかった。しかもその胸に滲み入るような言葉の中から、「わたしだって君の同胞なんだよ。」という別な言葉が響いてきた。で、哀れなこの若者は思わず顔をおおった。その後ながい生涯のあいだにも幾度となく、人間の内心にはいかに多くの薄情なものがあり、洗練された教養ある如才なさの中に、しかも、ああ! 世間で上品な清廉の士とみなされているような人間の内部にすら、いかに多くの凶悪な野性が潜んでいるかを見て、彼は戦慄を禁じ得なかったものである。
 こんなに自分の職務を後生大事に生きてきた人間がはたしてどこにあるだろうか。熱心に勤めていたというだけでは言い足りない。それどころか、彼は勤務に熱
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