とられ、膝頭で尻を蹴られたように感じただけで、雪の上へあお向けに顛倒すると、それきり知覚を失ってしまった。しばらくして意識を取り戻して起ちあがった時には、もう誰もいなかった。彼はその広っぱの寒いこと、外套のなくなっていることを感じて、わめきはじめたが、とうていその声が広場の端までとどくはずはなかった。絶望のあまり彼はひっきりなしにわめきたてながら、広場を横ぎってまっしぐらに交番をめがけて駈け出した。交番の傍らには一人の巡査が例の戟《ほこ》にもたれて佇《たたず》んでいたが、大声でわめきながら遠くからこちらへ走って来るのはいったいどこのどいつだろうと、どうやら好奇心を動かされたらしく、じっと目をこらした。アカーキイ・アカーキエウィッチは巡査のところへ駆けつけると、息ぎれで声もしどろもどろに、君はいねむりなどして注意を怠っているから、人が追剥《おいはぎ》にかかっても知らないでいるんだ、とどなりだした。巡査は、いっこう何も気がつかなかったが、なるほど広場の真中で二人の男があなたを呼びとめたのは知っている、けれど多分あれはお友だちだろうと思ったと答えて、ここでいたずらにぐずぐずいうよりは、明日警部のところへ訴えて出れば、外套を奪った犯人を捜査してくれると言った。アカーキイ・アカーキエウィッチはまったくとり乱した姿で家へ駆け戻った。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》と後頭部にほんの僅かばかり残っていた髪の毛はすっかりもつれて、脇や胸や、それにズボンが全体に雪だらけになっていた。宿の主婦である老婆は、けたたましく扉を叩く音を聞きつけると、急いで床から跳ね起きて、片方だけ靴を突っかけたまま、それでもたしなみから肌着の胸を押えながら、扉を開けに駆け寄った。しかし扉をあけて、アカーキイ・アカーキエウィッチのその風体《ふうてい》を見ると思わずたじたじと後ずさりをした。彼が一部始終を話すと、老婆はぽんと手をうって、それならまっすぐに本署へ行かなければだめだ、駐在所などではいい加減なことを言って口約束だけはしても、埒《らち》があかない、やはり一番いいのはじかに署長のところへ行くことだ、署長なら、もとうちの炊事婦をしていたアンナというフィンランド女が今あすこの乳母に傭われているので自分も知りあいであり、また、よくこの家の傍を通るのを見かけもするし、日曜には必ず教会へお祈りに行って、その際みんなの顔を楽しそうに眺めている、だから、どう見ても、気だての優しい人にちがいない、というのだった。こんな意見を聞いて、アカーキイ・アカーキエウィッチは悄然として自分の部屋へひきとったが、そこで彼がどのようにして一夜を過ごしたかは――少しでも他人の境遇を自分の身にひきくらべて考えることのできる人にはたやすく想像のつくことである。翌る朝はやく、彼は署長のところへ出かけて行った。しかし、まだ眠っているという話だったので、あらためて十時に行ったが、またもや「お寝《やす》みです。」といわれた。十一時にまた行ってみると、今度は「署長は、留守です。」との話。そこでまた昼飯どきに行くと――玄関にいた書記たちが、いっかな通そうともしないで、どんな用があるのか、何の必要があって来たのか、いったい何事が出来《しゅったい》したのかと、うるさくそれを問い糺そうとした。そこでさすがのアカーキイ・アカーキエウィッチもついに一世一代の気概を見せる心になって、自分はじきじき署長に面会する必要があって来たのだ、君たちには自分を通さない権利などはあり得ない。自分は公用を帯びて役所から来たのだから、もし自分が君等を訴えたなら、その時こそ吠え面をかかねばならぬぞ、と断乎として言い放った。それには書記連も一言も返すことばもなく、その中の一人が署長を呼びに行った。署長は外套|追剥《おいはぎ》の話を何かひどく変なふうに解釈した。彼は事件の要点にはいっこう注意を向けないで、アカーキイ・アカーキエウィッチに向かって、いったいどうしてそんなに遅く帰ったのか、どこかいかがわしい家へでも寄っていたのではないか、などと問い糺しはじめた。それでアカーキイ・アカーキエウィッチはすっかりめんくらってしまい、外套の一件が適当な措置をとられるものやらどうやら、さっぱりわからないままで、そこを出てしまった。この日いちにち、彼はとうとう役所へ出勤しなかった。(こんなことは一生に一度きりのことであった。)翌る日、彼はまっさおな顔をして、今はいっそうみすぼらしく見えるくだんの【半※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、41−3]《はんてん》】を着て出勤した。外套を強奪された話は、中には、こんな場合にすら、アカーキイ・アカーキエウィッチを嘲笑せずにはいられない役人もあるにはあったが――しかし多くの者の心を動かした。で早速、彼のために
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