めつ彼の外套の品さだめをした。アカーキイ・アカーキエウィッチはいささかてれはしたものの、根が正直な人間だけに、みんなが自分の外套をほめちぎるのを眺めては、どうしても喜ばずにはいられなかった。しかし当然のことではあるが、一同の者は間もなく彼も外套もうっちゃっておいて、例のごとくヴィストのために定められたテーブルへ戻ってしまった。すべてこれらのもの――騒音や、話し声や、人々の群れが、アカーキイ・アカーキエウィッチにはなんとなく奇態なものに思われた。彼はいったいどうしたらいいのか、自分の手足や五体のすべてをどこへ置いたらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。それでもとうとうしまいに、勝負をしている人々の傍らへ腰をおろすと、カルタを眺めたり、あちこちの人の顔をのぞきこんだりしていたが、しばらくすると、あくびがでて、退屈を感じはじめた。それにいつもなら、もうとっくに床に就く時刻なので、なおさらのことであった。彼は主人に暇《いとま》を告げて帰ろうと思ったが、みんなは是が非でも新調祝いにシャンパンの杯を挙げなければならないからといって、いっかな放そうとはしなかった。一時間ばかりして、野菜サラダと仔牛の冷肉と、パイと、菓子屋から取った肉饅頭と、それにシャンパンなどで夜食がでた。アカーキイ・アカーキエウィッチはシャンパンを無理やり二杯飲まされた。すると部屋の中がずっと陽気になったような気がし始めたけれど、それでも、もう十二時にはなっているし、とっくに家へ帰らねばならぬ時刻だということは、どうしても忘れることができなかった。そこで彼は、とやかく主人から引きとめられないようにと、こっそり部屋を抜け出して、控室で外套を探したが、それは痛ましくも床の上へ落ちていた。よく振って埃りをすっかり払い落とすと、それを肩にひっかけて、彼は階段を降りて表へ出た。街はそれでもまだ明るかった。界隈《かいわい》の奉公人やいろんな連中の不断の集会所になっている、そこいらあたりの小売りの店はまだあいていた。もう閉めている店もあったが、扉の隙間から長い灯影が洩れているのは、まだ彼らの集《つど》いがひけていないこと――おそらくそれらの召使たちは、彼らの居どころがわからなくて、自分らの主人たちがすっかり当惑しているのをよそに、まだいつもの無駄口や世間話にけりをつけようとしている最中だということを物語っていた。アカーキイ・アカーキエウィッチははなはだ上機嫌で歩いていたがふと、一人の婦人がどうしたわけか、まるで稲妻のように傍らを通り抜けながら、肢体の各部で奇妙な素振《そぶり》を見せて行く後を追っかけようとしたほどであった。しかし彼はとっさに立ちどまると、どうしてこんなに足早になったのかと我ながら怪しみながら、再び前のとおりきわめて静かに歩きだした。間もなく、彼の目の前には、昼間ですらあまり賑やかではなく、いわんや夜はなおさらさびしい通りが現われた。それが今は、ひとしおひっそり閑と静まり返り、街燈も稀《まれ》にちらほらついているだけで――どうやら、もう油がつきかかっているらしい。木造の家や垣根がつづくだけで、どこにも人っ子ひとり見かけるではなく街路にはただ雪が光っているだけで、鎧扉《よろいど》をしめて寝しずまった、軒の低い陋屋がしょんぼりと黒ずんで見えていた。やがて彼は、向こう側にある家がやっと見える、まるでものすごい荒野みたいに思われる広場で街通りが中断されている場所へと近づいた。
どこかとんと見当もつかないほど遠くの方に、まるで世界の涯《はて》にでも立っているように思われる交番の灯りがちらちらしていた。ここまで来るとアカーキイ・アカーキエウィッチの朗らかさも何だかひどく影が薄くなった。彼はその心に何か不吉なことでも予感するもののように、我にもない一種の恐怖を覚えながらその広場へ足を踏み入れた。後ろを振り返ったり、左右を見回したりしたが――あたりはまるで海のようだった。【いや、やはり見ないほうがいい。】そう考えると彼は目をつぶって歩いて行った。やがて、もうそろそろ広場の端へ来たのではないかと思って目をあげたとたんに、突然、彼の面前、ほとんど鼻のさきに、何者か、髭をはやしたてあいがにゅっと立ちはだかっているのを見た。しかしそれがはたして何者やら、彼にはそれを見分けるだけの余裕もなかった。彼の目の中はぼうっとなって、胸が早鐘のように打ちはじめた。「やい、この外套はこちとらのもんだぞ!」と、その中の一人が彼の襟髪をひっつかみざま、雷のような声でどなった。アカーキイ・アカーキエウィッチは思わず【助けて!】と悲鳴をあげようとしたが、その時はやく、もう一人の男が「声をたててみやがれ!」とばかりに、役人の頭ほどもある大きなこぶしを彼の口もとへ突きつけた。アカーキイ・アカーキエウィッチは外套をはぎ
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