ということに気がつかなかったらしい。
「君はそんなことをいったい誰に向かって言っているつもりなんだ? 君の前にいるのがそもそも誰だかわかってるのか? わかってるのか? わかってるのか? さ、どうだ?」
ここで彼は、アカーキイ・アカーキエウィッチならずとも、ぎょっとしたに違いないような威丈高《いたけだか》な声を張りあげながら、どしんと一つ足を踏み鳴らした。アカーキイ・アカーキエウィッチはそのまま気が遠くなり、よろよろとして、全身をわなわなふるわせ始めると、もうどうしても立っていることができなくなってしまった。で、もしもそこへ守衛が駆《か》けつけて、身を支えてくれなかったら、彼は床の上へばったり倒れてしまうところであった。彼はまるで死んだようになって運び出された。ところが、予期以上の効果に気をよくした有力者は、自分の一言でひとりの人間の感覚をさえ麻痺させることができるという考えにすっかり有頂天になり、友人がこれをどんな眼で見ているだろうかと、ちらとそちらを横目で眺めたが、その友人がまったく唖然たる顔つきをして、そのうえ怖気《おじけ》づきかかってさえいる様子を見て取ると、まんざらでもない気持になったものである。
どうして階段を降りたものやら、どうして街へ出たのやら、アカーキイ・アカーキエウィッチにはそんなことは少しも憶えがなかった。彼は自分の手足の知覚さえ感じなかった。生涯に一度としてこんなにひどく長官から、それも他省の長官から叱責されたことはなかった。彼は街上に吹きすさぶ吹雪の中を、口をぽかんと開けたまま、歩道を踏みはずし踏みはずし歩いていった。ペテルブルグの慣習《ならわし》で、風は四方八方から、小路という小路から彼を目がけて吹きつけた。たちまち彼は扁桃腺《へんとうせん》を冒されて、家へたどりつくなり、一言も口をきくどころか、全身にすっかりむくみがきて、そのままどっと寝込んでしまった。当然の叱責が時にはこれほど強い効果を現わすのである! 翌日になるとひどい熱が出た。ペテルブルグの気候の仮借なき援助によって、病勢が予想外に早く昂進したため、医者は来たけれど、脈をとってみただけで、如何《いかん》とも手の施しようがなく、ただ医術の恩恵にも浴せしめずして患者を見殺しにしたといわれないだけの申し訳に、彼は湿布の処分を書いただけであった。しかもその場で、一昼夜半もすれば間違いな
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